今年も間に合った海津大崎の桜
- 1 いいね
- 0 コメント
お天気も良いし、MOTO GUZZI V9BSのオイル交換もしたので「よし、出掛けよう!」とは言うものの、もうお昼・・ エッ(;゚Д゚)/「いつの間に!」 なので予定していた目的地は「また今度!」と言うことにして、「ゆーくんさん」の日記に釣られw黄色い「三岐鉄道」の電車も見たかったので、予定していた目的地のお隣「いなべ市」まで鈴鹿スカイラインを経由し「軽便鉄道博物館」と「貨物鉄道博物館」へ、とは言え「鉄ちゃん」では無いのでマニア的な事は解りません! 先ずは「軽便鉄道博物館」隣接の「三岐鉄道」の「阿下喜駅」に一時間に1本らしい電車が停まっていたのに写真を撮る前に発車してしまった!(涙目)こちらは ・・・
娘の推しアイドルの誕生日が近いとかで(同い年らしいw)お祝いに何かしたいと言うので京都の「車折神社」と「芸能神社」へ参拝に行って来ました! 台風の接近が幸いし、いつもなら人も車も一杯の筈の嵐山嵯峨野周辺も近県ナンバーの観光客を殆ど見掛けず、予定を変更できなかった遠方からの観光客が多かった様で(それでも渡月橋から嵯峨野線にかけての通りは黒山の人だかり・・)車折神社の10数台しか停められない駐車場にも無事入ることが出来ました! 写真1枚目/お約束の交通安全ステッカー(と云ってもマグネット式の方で)写真2枚目/駐車場から表参道へ横から入る鳥居。写真3枚目/鳥居を潜った正面の酒樽
土曜日の午後三時を過ぎてからコミネのヘルメットに仕込んだインカムのスピーカーで音楽が聴けるのか?テストにTS50Wハスラーで出掛けての帰路、音楽が途切れ聞き覚えのある呼び出し音が鳴るもSHOEIの「J-FoeceIII」ほど静かではないので道端にTS50Wハスラーを止めて悪友SP君からの電話に出て暫し密談w 翌早朝五時、まだ日の出前で暗い中、軽バンの格安レンタカーに乗り込み下道を走り続け、四日市を過ぎた辺りからちょっとだけ高速に乗って到着したのは「幸田サーキットyrp桐山」PITは悪友SP君も昔乗ってたGPZ400Rさんのお隣に入れて頂きました。PITエリアが狭いのでクルマは上の駐車場へ、入場 ・・・
余呉川右岸平地と琵琶湖岸を南北に走る賤ケ岳山系の西野山丘陵地帯は、平素は飲水にも困ったが,地勢が低いため余呉川氾濫時は滞水による作物の被害が大きかった。西野水道は、充満寺第11代住職・西野恵荘が氾濫防止のため西野山の掘削を計画、庄屋・村民を説得、彦根藩主井伊直亮の許可を受けて始めた。 1840(天保11)年着工。能登、伊勢から石工を招き、実に6年の歳月と1275両をかけて1845(弘化2)年に完成した。ノミだけで掘り抜かれた手堀りの岩穴である。以後余呉川の氾濫を防ぐ大きな役割を果たした。「近江の青の洞門」とよばれる。1950(昭和25)年のすぐ横に新水路、1980年に大型の新放水路(トンネル) ・・・
今回は、戦国時代のゴルゴ13といわれる杉谷善住坊が信長を狙撃したポイントを探索してきました!信長公記にも記載されています!信長公記 巻三遭難行路 千草峠にて鉄砲打ち申すの事 5月19日、浅井長政は鯰江城(現滋賀県愛東村)に軍勢を入れ、同時に市原(現永源寺町市原野)に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだ。これにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑(現永源寺町甲津畑)の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え(近江から伊勢へ抜ける経路)に変更した。 そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道 ・・・