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杉さん
今回は スズキとホンダのミュージアム見学を目的に、静岡県は浜松にやって来ました。
そこは 観光にも人気のスポットがたくさんあります。
まずは風光明媚な浜名湖へ、そして遠州大砂丘では自然の迫力が感じられました。
その後、本命の「スズキ歴史館」を見学、そこでは たゆまぬ試行錯誤に、ものづくりの情熱さえ感じられます。
これからは 同じく浜松市内にある「本田宗一郎ものづくり伝承館」へ向かいます。
浅間火山レースで日本一を、マン島TTレースで世界一を目指す宗一郎さん、そこに「ものづくり」の原点があるのかも、
(写真=静岡県浜松市 本田宗一郎ものづくり伝承館にて)
<ツーリング期間=2018.11.25~2018.11.29>
4日目 「本田宗一郎ものづくり伝承館」で 昭和のマシンにご対面
浜松の宿を出発し、天竜川沿いに28kmほど走ると ようやく到着しました。
そこへ館長の奥様がお出迎え、そして館長にも歓迎され 伝承館について解説してくれた。
まず目に入るのは ホンダのルーツ「カブ号」、物の無い時代 身近にある物を工夫して造ったという。
まさに 創意工夫に長けた天才技術者です。
それでは 展示車両を簡単に紹介します。
ホンダ ドリーム50 1997年(平成9年)
DOHC 4バルブ 単気筒 49cc 5.6ps/10500rpmという高回転型エンジンを搭載、
60年代のレーサー「CR110カブレーシング」をイメージしたロードスポーツバイク、
また、前後油圧ディスクブレーキなど 小さいながら本格的です。
このスタイル・デザインは、クラシックレーサー好きには たまらない一台、床の間に飾って置きたいほどです。
年間販売目標は8000台、しかし329,000円と高価なこと、
そして30km/h規制などで販売は不調、また排出ガス規制に対応できず 3年後に生産中止に、
展示フロア中央には、レーサーマシンが2台 スポットライトを浴びています。
しかし ホンダによると、これまで順風満帆の人生では なかったようです。
昭和29年のこと、経営難に陥ります。
当時 オートバイメーカーは、50社以上あり 日本は激戦区、
陸王・目黒・山口・宮田・ブリヂストン・トーハツなどです。
そのとき 相棒の藤沢氏の助言により、世界のビッグレースに参戦することを宣言します。
従業員の士気を高めることで、経営の立て直しを図ろうと したらしい。
そこで宗一郎さん 欧州へ渡り、「マン島TTレース」を視察、
マシンは想定の3倍ものパワー、世界の壁の厚さに衝撃を受けます。
ここで怯む宗一郎さんではありません、益々 闘志が湧いて来ました。
まずは組織づくり、それからレーシングエンジンの研究・開発に取り組みました。
そして昭和30年から、群馬県の「浅間火山レース」に挑戦します。
これは ホンダの性能をアピールする絶好のチャンスです。
第1回大会、125ccクラスはヤマハが 1~3位を独占、破竹の勢いです。
250ccクラスは ライラックが優勝、
ホンダは軽量化とパワーで戦うも、マシントラブルで完敗、
第2回大会は 両クラス共ヤマハが優勝、ホンダは またしても敗北、
第3回大会、更なる研究に取り組み 2車を投入、
それは ワークスマシン・ベンリーRC142(125cc)と、ドリームRC160(250cc)、当時としては究極のマシンです。
結果、125ccクラスは1~4位、250ccクラスは1~5位を独占、悲願の完全優勝を果たしました。
これが世界一へ挑戦する突破口に なったようです(写真=ヤマハHPより)
その後、イタリアのレーシングマシン「モンディアル」を入手し、レーサー開発は急ピッチで進められました。
そして 1960年(昭和35年)、いいよい「マン島TTレース」に挑みます。
125cc 4台で参戦するも、チェーンは伸びてローラーが飛び出し、プラグは電極が飛び ピストンには穴が、
河島監督は「何んとしてでも 完走しろ!」と指示、1台でも完走すれば データが取れるからと、
結果、予選は12~15番グリッド、
決勝では6位~11位と、完走するも 優勝には及びません。
そこで彼らはいう「私たちは 初めて世の中に出たが、井の中のカエルでした」と、
そして翌年は世界GP第1戦「スペインGP」に挑戦、結果 125ccで見事優勝、これは歴史的快挙です。
宗一郎さん曰く、「失敗のない人生なんて面白くない、歴史がないようなもんです」と、
ホンダ RC174 ロードレーサー 1967年(昭和42年)
空冷6気筒 DOHC 4バルブ 297cc 65ps/17000 rpm 250km/h
ホンダは 世界選手権ロードレースへ、350ccクラスへも挑戦します。
何んと 120度クランクの6気筒だ! 振動が少なくバランスのいいエンジンだったらしい。
世界の2輪チームは、「まるで時計の中身のようだ」と 驚かれたようです。
当初は、250ccクラスで9戦全勝したという4気筒エンジンをベースにした285ccで参戦、
しかし、MVアグスタの4気筒に太刀打ち出来ず 完敗したという。
その後 改良を加えたこの6気筒・RC174は、350ccクラス負け知らずの6連覇を達成、
技術屋ホンダの底力を、世界に知らしめたということです。
それでは 2階を覗いてみます。
そこは地域住民の交流の場、講座や作品展などが開催できる「ワークショップスペース」が設けられています。
壁にパネルを貼り付け、宗一郎さんの歩んできた軌跡や格言などを紹介しています。
また、彼が趣味で描いたという絵画も展示されていました。
今回見たかったのは、燃料タンクに湯たんぽを使った自転車オートバイ、
それから高校生のころ欲しかったTボーンフレームのベンリーCS90と、憧れのスーパースポーツ・ドリームCB72です。
しかし 企画展示車両のレーサー2台は見られて良かったが、今回見たかったバイクは見られずちょっと残念!
栃木県茂木の「ホンダコレクションホール」には 展示されているかも、いつか見に行きたいものです。
また、宗一郎さんの経歴も紹介していました。
それによると、彼は鍛冶職人の長男として生まれたという。
親の血をひき手先が器用、そして親の教育により 几帳面な性格だったとか、
そして15歳のとき、東京の修理工場「アート商会」へ年季奉公へ、
21歳のときには 非凡な才能が認められ、アート商会・浜松支店を開業、暖簾分けを果たしました。
そこで消防車・ダンプカー・バス、そしてレーシングカーまでも 手がけるようになります。
一人で起業するも、瞬く間に従業員30数名の企業へ発展したといいます。
29歳のときには、多摩川スピードウェイのレースに「ハママツ号」で参戦、
これがきっかけで、世界へ挑戦するようになったらしい。
宗一郎さんは益々才能を発揮し、「浜松のエジソン」と呼ばれるように なったということです。
コメント(全6件)
このロードレーサーは、、マン島TTで
ホンダが世界に
挑戦し始めた、バイクですかね?ここからレースの歴史が
始まるのですね
当時海外では有名なレースだったようですよ。
そこへ日本人の宗一郎さんが挑むとは生粋のエンジニアだったのでしようね。
RC181ロードレーサーは美しくもあり性能の高さもうかがえますね。これからF1の世界王者へとは日本人の誇りであり宗一郎さんの情熱に拍手喝采ですね。
本当ですよね、バイクレースで一世風靡して、
F1でも頂点を取るまで成長し、凄いです
F1は、あのトヨタ、ニッサンも頂点に立って無いですから
二輪、四輪とも頂点を取るとは、凄すぎます
そうなんですよね、大企業でさえ達成しえなかった世界の頂点に立ったとは宗一郎さんの人徳によるものかも知れませんね。
現場のエンジニアと一緒になって難関に挑む宗一郎さん、怖い人だというが尊敬さていたようですね。社員と一緒になって笑う宗一郎さん、素晴らしいです。
HONDAはクルマはヤンチャなのに、バイクは優等生特性が多い気がします。
安全面で言えば仕方ないところかも知れませんが。
そういえばSRとかモデューロとかそんな感じがしますね。
どうしてなんでしょうか、自動車大手は万人受けする車でシェアアップ重視、ホンダはそれに対抗しているのも知れませんね。
バイクも個性的なバイクも造って二輪業界を盛り上げて欲しいです。