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チバアヒル(令和の馬笑)さん

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聖地巡礼...南総里見八犬伝(鈴ヶ森品川合戦の巻)

走行距離
4km

前々話で荒芽山で散り散りになった犬士たちですが、前話では下野の国庚申山で犬飼現八が化け猫退治して8人目の犬士・犬村大角(いぬむらだいかく)と出会うところまで話が来ました。

 

一方ほかの犬士のお話がここからです。

ここの場面は、「鈴ヶ森の決闘」「品川合戦」というもう一つの見せ場となっています。

 

場所は変わって、大森の鈴ヶ森の場面、犬坂毛野(いぬさかけの)は、千葉氏の家来で父の仇・篭山逸東太を打ち取ろうと虎視眈々と待ち構えます。

荒芽山で散り散りとなった犬士たちでしたが、その後、犬坂毛野(いぬさかけの)に犬田小文吾(いぬたこぶんご)と犬川荘助(いぬかわそうすけ)が再会し、犬坂毛野の事情を察した犬田小文吾、犬川荘助は助太刀することにしました。

鈴ヶ森の仇討ちでは、助太刀の力もあって、犬坂毛野は見事、父の仇・篭山逸東太を打ち取ることができました。

しかし、倒された篭山逸東太は関東管領扇谷定正の家臣となっていたことから、扇谷定正は家臣を倒された報復に、犬士たちを打ち取ろうと、軍を率いて品川に出陣してきます。

一方、扇谷を主君の仇と狙う犬山道節(いぬやまどうせつ)は、この機会に品川で扇谷を討とうとしますが、すんでのところで取り逃がしてしまいます。

これを八犬伝の見せ場のひとつ、「品川の合戦」と言います。

A地点

大森の鈴ヶ森

地名の大森、そして場所名の鈴ヶ森...両方とも森がついているようにこんもりとした山深い場所だったのでしょうが、今はビルの谷間です。

古い絵図だとこんな感じだったようです。

鈴ヶ森と言えば江戸時代は刑場として有名で、東海道から江戸に入る場所にある「鈴ヶ森」、奥州街道から江戸に入る場所にある「小塚原」はつとに有名で、江戸に入って悪いことをするとこんな風になるぞという見せしめの場所だったのです。

今でも現地には火あぶりや磔にするときに使う礎石が残っていて、何人がこの上で命を落としたのか見ているだけで背筋が寒くなります。

 

ちなみに、南総里見八犬伝の時代設定だとまだ刑場はできていません。(^^;

B地点

品川神社

品川合戦は架空のお話なので、どこでそのような合戦が行われたか空想するしかありませんが、慶長5年の関ケ原の合戦に徳川家康軍が向かう際に、ここ品川神社で戦勝祈願して見事勝利を収めたことから、以後徳川の庇護を受けて品川神社が栄えたということであり、馬琴はこのあたりを品川合戦のイメージに使ったのかもしれません。

品川神社はあちこちに徳川葵の紋がありますので、機会があって立寄ったらいくつ葵紋があるか探してみてください。(^^)

 

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コメント(全14件)

おっぺけさん
足尾から今度は大都会トーキョーですね。

仇討ちって当時は合法的だったかと、、
人を切った事ある武士はいつも仇討ちの恐怖?
を感じていたんでしょうか?

今では想像つかないですね。
  • (1)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
明治初期の鈴ヶ森はこんな感じです。古写真がありました。
仇討ちは明治になって「敵討禁止令(あだうちきんしれい)」が布告されるまで合法でした。
その後の近代刑法制度の整備の中で「自力救済の禁止」などが規定され、不法違法行為は個人の力で対処するのではなく、社会の法によって罰するという仕組みに変わりました。
これを「法の支配」といいます。(^^)
  • (0)
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toshiさん
鈴ヶ森と言うとどうしても刑場が有名ですね。
それ以前から色々ある土地なんでしょうかね?(´・ω・`)
  • (2)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
鈴ヶ森は江戸の入り口だったので、江戸幕府が開かれてから見せしめのための刑場がおかれたらしいです。
明治初期の↑古写真がありました。浜辺のど田舎です。(^^;
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たかぴーさん
古い絵と比べると随分と都会ですが・・・
史跡としては保存されているんですね〜(^^)
  • (1)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
鈴ヶ森の刑場跡は、史跡として保存されていますが、刑場の隣には処刑者を弔うために昔から大経寺というお寺があり、今もそのお寺があります。
  • (0)
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サッシさん
こんにちは。チバアヒルさん^o^
あちこちに湖畔や沼地があった江戸時代初期からすると、現代の関東平野はほぼ別世界並みに、平地化されてマスカラネ(^ ^)
当時の馬琴が現代に来たら、地名は同じなのに、見慣れない土地ばかりで辟易すると思いマス_| ̄|○
  • (1)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
明治10年頃の品川駅の古写真です。...単線で線路が波打ち際を走ってます(@o@;
今じゃ想像できませんね(^^;
  • (1)
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パチ10(忍魂!!!!!! )さん
仇討ちか~・・・今じゃそういうの出来ないよね^^;

鈴ヶ森って昔の絵と今じゃ景色が全然違いますね~
今はビルの谷間の場所が刑場だったなんて想像も
つかないですね~
  • (1)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
仇討ちは、江戸時代以前は好き勝手にできたようですが、江戸時代になると武士同士の無仇討ちは幕府の許可が必要で、忠臣蔵は典型的な仇討ちですが、勝手にやったので四十七士は切腹させられましたからね(^^;
鈴ヶ森は、今では古写真とは想像もつかない景色です。
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TOMTOMさん
仇討ちは、経験無いけれど、お礼参りは、良くしたような。(笑)
半世紀以上前の事です。(爆)
  • (1)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
お礼参り...今でいう「倍返し」ですね(^^;
  • (0)
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ゴリフさん
昔、鈴ヶ森で何か写らないかとふざけて夜中に車で写真を撮りに行きましたが、全く変なものは写りませんでした。
が、その帰りに茅場町のマンションのふもとで撮った隅田川の写真に、とんでもないものが・・・
  • (1)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
私は心霊的なものにはとても鈍感なので、ほとんど感じないのですが、鈴ヶ森史跡に張り付け杭を立てるための礎石が残っていて、これを見たときはさすがにギョツとしました...Σ(||゚Д゚)
江戸代の磔は、一応作法があったみたいで、脇腹から斜め刺しして肩に槍先が突き出るほど差して、これを左右交互に30回繰り返し、とどめに喉から頭骨に刺し上げてと終わりだそうです。
死体は穴に捨て、野犬やカラスに食わせて残った骨を埋めたと言われてます。(+o+)
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