人生初餅つきしましたw
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新車で買える国内メーカーのオフ車が無い! ZXR750H1を手放して懐に転がり込んだ売却代金!このご時世、蓄えておくのが正解なのでしょうが「アレコレ買っちゃえ!」となるのは必定?wしかし、小出しの戦力投入は各個撃破の憂き目に遭うのが相場!しかし今どきZXR750H1を購入した時の価格で手放したので、大物を狙うには軍資金不足・・追い金を工面したら何とか手が届きそうだったKLX230もカタログ落ち、コンペティションモデルのKLX230Rの方なら注文可能?その辺りをKawasakiのプラザ店に訊きに行ったら、なんか小さいのが置いて在る。 小さいのは全く眼中にも候補にも入ってなかったけど、よく見たらチ ・・・
3日目。台風の影響なのかして、迂闊に走り回ると危ないと思い、宇都宮の宿で一日ゆっくりして雨をやり過ごす事に。結果、思いの外天候は荒れ無かったようで、市内散歩程度なら出来たかな。無理はしない方針。しかしながら、お陰様で4日目が少々忙しくなりまして。宇都宮城、壬生城、唐沢山城、足利氏館、沼田城、名胡桃城、岩櫃城をまわって上田市辺りまで移動したいところでしたが、結果、沼田城までで日が暮れましたので名胡桃城と岩櫃城はまたの機会に諦めて、翌朝小諸市方面に向かう事と相成りました。足利から日光方面に戻りつつ、いろは坂が気になり、道中交通事故に遭った子猿に気を引かれ、前に遅いスズキ車、後ろに速いスバル車に挟ま ・・・
夕食を食べ終えてだんだん闇が迫ってくる少し前の時間、木漏れ日ってのは見掛けた事ありますが、夕陽が木々の間から差し込んで、所々真っ赤になっています。 iPhoneの性能が良すぎ?て明るく写っていますが、実際はほんとに薄暗く、所々だけ真っ赤でとても幻想的でした。 ところでWebikeさん、昨日は日記友の過去日記を大量に送ってくれてびっくりさせていただきました。 今日は日記書こうとしたら、チャプターが増やせなくなっていますよ。写真も1枚しか貼り付けれないし。 早く日記の続きを書かないとどんどん記憶が無くなっていくので、早く元に戻してくださいね。 って事で引き揚げ完了編もう少し先になります。
余呉川右岸平地と琵琶湖岸を南北に走る賤ケ岳山系の西野山丘陵地帯は、平素は飲水にも困ったが,地勢が低いため余呉川氾濫時は滞水による作物の被害が大きかった。西野水道は、充満寺第11代住職・西野恵荘が氾濫防止のため西野山の掘削を計画、庄屋・村民を説得、彦根藩主井伊直亮の許可を受けて始めた。 1840(天保11)年着工。能登、伊勢から石工を招き、実に6年の歳月と1275両をかけて1845(弘化2)年に完成した。ノミだけで掘り抜かれた手堀りの岩穴である。以後余呉川の氾濫を防ぐ大きな役割を果たした。「近江の青の洞門」とよばれる。1950(昭和25)年のすぐ横に新水路、1980年に大型の新放水路(トンネル) ・・・
今日も朝から暑かったので木陰の多いところへ行こうと思い、舗装林道目的でジェベルに乗りました。国道122号を日光方面に向かい、足尾で右折して粕尾峠を越えました。当初は峠越えの後、左折して前日光線に入り、入粟野方面へ行く予定だったのですが、山の神でトイレ休憩をしたせいで、左折ポイントを通り過ぎてしまいました。休憩後少し走って間違いに気付いたのですが、戻ると帰りも遅くなって、結果的に暑い時間帯を多く走ることになるのでそのまま粟野方面へ下りました。国道293号に出てから佐野方面へ向かい、旧田沼町にある鳥喜さんで唐揚げを買って帰りました。※カバー写真は、地図C地点の山の神で撮影しました。
今回は、戦国時代のゴルゴ13といわれる杉谷善住坊が信長を狙撃したポイントを探索してきました!信長公記にも記載されています!信長公記 巻三遭難行路 千草峠にて鉄砲打ち申すの事 5月19日、浅井長政は鯰江城(現滋賀県愛東村)に軍勢を入れ、同時に市原(現永源寺町市原野)に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだ。これにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑(現永源寺町甲津畑)の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え(近江から伊勢へ抜ける経路)に変更した。 そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道 ・・・