トップケース装着 本当は不格好に為るので付けたくは無いのですが ケースが有ると物凄い便利なので実用化の為に取り付けました
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新車で買える国内メーカーのオフ車が無い! ZXR750H1を手放して懐に転がり込んだ売却代金!このご時世、蓄えておくのが正解なのでしょうが「アレコレ買っちゃえ!」となるのは必定?wしかし、小出しの戦力投入は各個撃破の憂き目に遭うのが相場!しかし今どきZXR750H1を購入した時の価格で手放したので、大物を狙うには軍資金不足・・追い金を工面したら何とか手が届きそうだったKLX230もカタログ落ち、コンペティションモデルのKLX230Rの方なら注文可能?その辺りをKawasakiのプラザ店に訊きに行ったら、なんか小さいのが置いて在る。 小さいのは全く眼中にも候補にも入ってなかったけど、よく見たらチ ・・・
夕食を食べ終えてだんだん闇が迫ってくる少し前の時間、木漏れ日ってのは見掛けた事ありますが、夕陽が木々の間から差し込んで、所々真っ赤になっています。 iPhoneの性能が良すぎ?て明るく写っていますが、実際はほんとに薄暗く、所々だけ真っ赤でとても幻想的でした。 ところでWebikeさん、昨日は日記友の過去日記を大量に送ってくれてびっくりさせていただきました。 今日は日記書こうとしたら、チャプターが増やせなくなっていますよ。写真も1枚しか貼り付けれないし。 早く日記の続きを書かないとどんどん記憶が無くなっていくので、早く元に戻してくださいね。 って事で引き揚げ完了編もう少し先になります。
余呉川右岸平地と琵琶湖岸を南北に走る賤ケ岳山系の西野山丘陵地帯は、平素は飲水にも困ったが,地勢が低いため余呉川氾濫時は滞水による作物の被害が大きかった。西野水道は、充満寺第11代住職・西野恵荘が氾濫防止のため西野山の掘削を計画、庄屋・村民を説得、彦根藩主井伊直亮の許可を受けて始めた。 1840(天保11)年着工。能登、伊勢から石工を招き、実に6年の歳月と1275両をかけて1845(弘化2)年に完成した。ノミだけで掘り抜かれた手堀りの岩穴である。以後余呉川の氾濫を防ぐ大きな役割を果たした。「近江の青の洞門」とよばれる。1950(昭和25)年のすぐ横に新水路、1980年に大型の新放水路(トンネル) ・・・
北海道も毎日の様に曇り雨の蝦夷梅雨・・・晴れた日は、もちろん仕事ばかりですが!短い夏を向かえ、3週間ぶりの休日が取れたので、タイヤの皮むきついでの朝散歩です。霧立峠遠征も悩みましたが、猛暑を想定して結局、いつものパノラマ往復です。猛暑と交通状況を考えての朝5時出発の9時帰宅、4時間散歩でした。自分と同じ考えの早朝組が本日は多かったです。途中路面があちこちと濡れていて、いつもの様にバイクが泥だらけになりましたが、キンチョー(緊張感)が大事なので良しとします。9時に帰宅するとバイクの温度計は30℃・・・市街地は、いつもの水温計103℃、熱い・・・本州のライダーは常々、凄いなあと感心します。タイヤは
今回は、戦国時代のゴルゴ13といわれる杉谷善住坊が信長を狙撃したポイントを探索してきました!信長公記にも記載されています!信長公記 巻三遭難行路 千草峠にて鉄砲打ち申すの事 5月19日、浅井長政は鯰江城(現滋賀県愛東村)に軍勢を入れ、同時に市原(現永源寺町市原野)に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだ。これにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑(現永源寺町甲津畑)の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え(近江から伊勢へ抜ける経路)に変更した。 そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道 ・・・
昨年、先月とPAまで行っても散策する期会を逃がしていた、神仙沼へ当丸峠を経由して岩内からニセコパノラマラインで向かいました。神仙沼で1時間程滞在、倶知安・赤井川・毛無峠を通り6時間で昼過ぎに帰宅の予定で6時30分出発です。本日の予定コースの天候は晴れ気温20℃~27℃久しぶりのバイク日和?、余市を通過するると、岩内町までのトンネル内が水浸し通過するトンネル全てが水浸し、神仙沼でバイク降りて見ると雨が降ってないのに泥だらけでした。道道998号は貸切状態でしたが、トーマル峠の下りの覆道内の水は、冬季の氷結を連想して怖くてビビりです、カーブの縦溝にはタイヤを振られそうでビビりと、久しぶりに怖かったで ・・・