今回は、新品ベビーフェイスのバックステップのパーツが試運転数分後走行中に脱落! 応急処置で帰宅、パーツ注文に至る! ついでに、シフトアームも交換しました!
- 0 いいね
- 7 コメント
昨日、今日と福井、滋賀にロングツーリングに行ってきた。10ヵ月ぶり、今年は最初のツーリングではある。行こうとは思っていたんだけど雨だったり都合が悪くなったりコロナの影響だったりとなかなか出かけられず、この日程も10日間予報で大雨になっていたのでダメだなと思いながら他の日程を考えていたが、何だかんだで用事があったりしてなかなか日程が取れない。何となく億劫というところがあるのか、以前のように「雨が降ったら濡れればいいさ」とはならない。バイクもそろそろ卒業かななんて思っていたらふと天気予報を見るといつの間にか晴になっている。それじゃあ行くかと思いながらもなかなか決まらない。結局前日にホテルを取って出 ・・・
日曜日、少し出遅れるも朝七時過ぎにガレージ出発!どのルートにしようか?鈴鹿スカイラインから三重に抜けまた鞍掛峠で滋賀に戻ってくるルートにしようか?・・でももう暑い!やっぱり「そのまま北上しよう・・」本日の目的地は彦根方面なので手っ取り早くいつもの様に琵琶湖沿いを北上! ・・まだ九時前なのに、もう彦根城付近に到達!「シマッタ!早く着き過ぎた・・」まだお目当ての目的地は開いてない時間だったw 仕方が無いので、そのまま北上し暑いので涼を求め県を越え長いトンネルの中で寒いぐらい涼み到着したのは岐阜県の道の駅「星のふる里ふじはし」お腹が空いていたので楽しみにしていたお蕎麦屋さん「なんか店名が変わってる? ・・・
夕食を食べ終えてだんだん闇が迫ってくる少し前の時間、木漏れ日ってのは見掛けた事ありますが、夕陽が木々の間から差し込んで、所々真っ赤になっています。 iPhoneの性能が良すぎ?て明るく写っていますが、実際はほんとに薄暗く、所々だけ真っ赤でとても幻想的でした。 ところでWebikeさん、昨日は日記友の過去日記を大量に送ってくれてびっくりさせていただきました。 今日は日記書こうとしたら、チャプターが増やせなくなっていますよ。写真も1枚しか貼り付けれないし。 早く日記の続きを書かないとどんどん記憶が無くなっていくので、早く元に戻してくださいね。 って事で引き揚げ完了編もう少し先になります。
余呉川右岸平地と琵琶湖岸を南北に走る賤ケ岳山系の西野山丘陵地帯は、平素は飲水にも困ったが,地勢が低いため余呉川氾濫時は滞水による作物の被害が大きかった。西野水道は、充満寺第11代住職・西野恵荘が氾濫防止のため西野山の掘削を計画、庄屋・村民を説得、彦根藩主井伊直亮の許可を受けて始めた。 1840(天保11)年着工。能登、伊勢から石工を招き、実に6年の歳月と1275両をかけて1845(弘化2)年に完成した。ノミだけで掘り抜かれた手堀りの岩穴である。以後余呉川の氾濫を防ぐ大きな役割を果たした。「近江の青の洞門」とよばれる。1950(昭和25)年のすぐ横に新水路、1980年に大型の新放水路(トンネル) ・・・
今回は、戦国時代のゴルゴ13といわれる杉谷善住坊が信長を狙撃したポイントを探索してきました!信長公記にも記載されています!信長公記 巻三遭難行路 千草峠にて鉄砲打ち申すの事 5月19日、浅井長政は鯰江城(現滋賀県愛東村)に軍勢を入れ、同時に市原(現永源寺町市原野)に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだ。これにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑(現永源寺町甲津畑)の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え(近江から伊勢へ抜ける経路)に変更した。 そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道 ・・・
古い写真を発掘したのでご紹介シリーズ!?w時は、ちょうど20年前の2002年3月19日現地時間で12時ごろwいつものお得意先の視察旅行ですがBRABUS社屋の中から、地下の秘密ガレージまで大盤振る舞いでしかも重役の方に案内されて全て見せて貰いましたがそれが何故か?と云うと我々の視察団長がBRABUS創業オーナーのボード・ブッシュマン(Bodo Buschmann)氏とお友達だったから!そんな人と、どんな伝手でお友達になったの?と訊きましたら飛行機で偶然隣同士になって話したら「意気投合!」w視察団長はFerrariF40を持ってたこともあるクルマ好き!で某ワークスのスポンサーもされてたので話が弾 ・・・