かねてから3月下旬に計画していた原2山陰ツーリングの宿とフェリーの予約が完了したので、告知します。
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昨年、島外ツーの度に、昔からの馴染みの自転車屋に顔出しついでに手頃なクロモリロードバイクを物色。 たまたま自分のサイズ(フレームサイズ55)にぴったりなクロモリロードバイクを発見→一目惚れ。 その時の手持ちから、頭金2諭吉を渡し、一文字ハンドルからドロップハンドル化に換装依頼。 12月の年末ギリギリに完成したよーと連絡はあったモノの職場のクラスター発生やその影響で人手が足りず_| ̄|○ 1月は、島外に出ることが出来ず、2月に入っての連休は25日と26日のみ。 25日の朝一の飛行機で鹿児島本土に飛び、高速バスで市内中央駅まで。そこから、即タクり、目当ての自転車屋まで。 やーっと、手に入れマシタ* ・・・
余呉川右岸平地と琵琶湖岸を南北に走る賤ケ岳山系の西野山丘陵地帯は、平素は飲水にも困ったが,地勢が低いため余呉川氾濫時は滞水による作物の被害が大きかった。西野水道は、充満寺第11代住職・西野恵荘が氾濫防止のため西野山の掘削を計画、庄屋・村民を説得、彦根藩主井伊直亮の許可を受けて始めた。 1840(天保11)年着工。能登、伊勢から石工を招き、実に6年の歳月と1275両をかけて1845(弘化2)年に完成した。ノミだけで掘り抜かれた手堀りの岩穴である。以後余呉川の氾濫を防ぐ大きな役割を果たした。「近江の青の洞門」とよばれる。1950(昭和25)年のすぐ横に新水路、1980年に大型の新放水路(トンネル) ・・・
今回は、戦国時代のゴルゴ13といわれる杉谷善住坊が信長を狙撃したポイントを探索してきました!信長公記にも記載されています!信長公記 巻三遭難行路 千草峠にて鉄砲打ち申すの事 5月19日、浅井長政は鯰江城(現滋賀県愛東村)に軍勢を入れ、同時に市原(現永源寺町市原野)に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだ。これにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑(現永源寺町甲津畑)の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え(近江から伊勢へ抜ける経路)に変更した。 そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道 ・・・