三人寄れば病気の話
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余呉川右岸平地と琵琶湖岸を南北に走る賤ケ岳山系の西野山丘陵地帯は、平素は飲水にも困ったが,地勢が低いため余呉川氾濫時は滞水による作物の被害が大きかった。西野水道は、充満寺第11代住職・西野恵荘が氾濫防止のため西野山の掘削を計画、庄屋・村民を説得、彦根藩主井伊直亮の許可を受けて始めた。 1840(天保11)年着工。能登、伊勢から石工を招き、実に6年の歳月と1275両をかけて1845(弘化2)年に完成した。ノミだけで掘り抜かれた手堀りの岩穴である。以後余呉川の氾濫を防ぐ大きな役割を果たした。「近江の青の洞門」とよばれる。1950(昭和25)年のすぐ横に新水路、1980年に大型の新放水路(トンネル) ・・・
今回は、大化の改新・壬申の乱でお馴染みの、天智・天武天皇たちの母が眠ると学者たちが思っている牽牛子塚古墳へ、整備工事も終わり人も引いた頃なので、ゆっくり見学できました!飛鳥時代の女帝で天智天皇・天武天皇の母とされる第37代斉明天皇(第35代皇極天皇)の陵で、巨石をくりぬいて2つの墓室を設けた特異な内部構造で知られており、斉明天皇(皇極天皇)と娘の間人皇女(孝徳天皇の皇后)の合葬墓だそです。前方には、『日本書紀』の記述から飛鳥時代の皇族である大田皇女(孫娘)の墓墳も併せて現代によみがえらせた。丘は対角長18.5m高さ約4mの八角形墳で版築によって築かれていることが天皇陵?ではとの根拠。この近所に ・・・