チバアヒル(令和の馬笑)さん

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零戦追悼日記...(-人-)南無...まだ終わらない太平洋戦争

ツーリング期間
2021年08月03日 ~ 2021年08月03日

新聞の千葉県地域版に小さな記事が載っていました。

“太平洋戦争が終わった1945年8月15日の午前、千葉県の茂原海軍航空基地から複数の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)が飛び立った。敵機の迎撃に向かったとされるが、5機が撃墜された。
うち2機は、75年以上たった現在も墜落場所が分かっていない。
今年1月、同県大多喜町でゼロ戦の機体の一部が新たに見つかった。付近では、人骨のようなものも発見され、DNA鑑定が進められている。あの日、出撃したゼロ戦なのか。乗っていたのは誰なのか―。"

掘り出された零戦の機体部品が睦沢町の戦争企画展で展示されているというので、見に行ってきました。

睦沢町民俗資料館の展示室で今回の企画展が行われていました。

受付でパンフをいただいて企画展に入りました。

常設展示されている仏像、彫刻その他を含めて、中の展示物は撮影禁止と言うことなので、ネット記事やパンフのコピーで見学内容を少し説明します。

メインの展示物は、地中から掘り出された零戦のエンジンや機関砲です。

機関砲は99式2号機関砲

零戦52型や紫電・紫電改・雷電などに搭載されていた長弾道に改良された20mm航空機関砲ですね。

シリンダーも墜落の衝撃でつぶれてます。

空冷とはいえボアの大きさに比べてシリンダーの肉が薄いのに驚きます。

また、シリンダーフィンも一体鋳造ではなく植え込み式だったんですね。

こういうのは、現物を見ないとなかなかわからないものです。

ピストンも肉薄で裏側に強度を上げるためと冷却効果を高めるためにたくさんのリブが入っています。

また、リングの潤滑のためのリング孔がたくさんあけられています。

こういうピストンの造りを見ただけでぞくぞくします。(^^)

プロペラ...

墜落した火災の熱で暴発した13mm機銃弾も掘り起こされ展示されていました。

8月15日終戦の日の茂原基地からの出撃で、5機が撃墜され、2機は墜落場所不明となっていて、この不明2機に搭乗していた人の関係資料も展示されています。

おそらく、この撃墜された日の正午には玉音放送で終戦が宣言されたので、軍の機能も停止して、まともな捜索もされず70年以上放置されたんでしょうね。

私の父も陸軍の特攻隊員でしたが、父の部隊では8月になると訓練命令が出ず、部隊内でも終戦のうわさが飛び交っていたと言ってました。

おそらく海軍も情報としては何らかの気配はわかっていたはずで、まして首都に近い内地の茂原基地なのに、この終戦の日の朝に出撃命令を出した基地司令の責任は重いと思います。(==)

ちなみに、この海軍茂原基地252空は日本のエースパイロットが勢ぞろいしていた時期もありました。

大空のサムライこと...坂井三郎

ラバウルの魔王こと...西澤広義

日本一の撃墜王と言われる零戦虎徹こと..岩本徹三

しかし、終戦の頃には、茂原基地にいた、これらエースパイロットも全国ちりじりとなり、地域の古老の話によると、戦争末期には茂原基地から迎撃に出撃しても、P51やF6Fには歯が立たず、見ているうちにあれよあれよと撃ち落されるばかりで、タコ殴り状態だったようです。

コロナで、外出制限が続いていますが、田舎の町の企画展で空いているので、機会があったら見に行ってください。(^^)
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コメント(全34件)

くれないの?デブっ!(ター坊改め。略称「くれデブ」)さん
興味深い資料ばかりですね。
運命とはいえ、あと数時間出撃命令が遅かったら…
今を生きる者として、哀悼の意と不戦の誓いを御霊に捧げます。
  • (1)
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軽量化以上に体重が増えたさん
うーん
父親の実家の側に小さな飛行場が有ったそうですが空襲になると全機着陸して避難してたそうです
中には状況のわかってる指令も居たんですね
  • (1)
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Maxさん
こんばんは
もうすぐ終戦記念日など、戦争の歴史の日々がありますが、今を生きる者として何が出来るか考え、行動しようと思います。
明日の為に、何をすべきか。
では、また
  • (1)
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パチ10(忍魂!!!!!! )さん
終戦の日の午前中に飛び立って撃墜されてしまうとは・・・
出撃命令出てなければ命落とさずに済んだのに~って
思ってしまうけど当時はそんな状況じゃなかっただろうし^^;

戦争末期だとパイロットの練度も低くなってしまったのかな?
相手の戦闘機に簡単に落とされてしまったようだし^^; もちろん
戦闘機の性能もあるだろうけど
  • (1)
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シェフさん
高校生時代には、生存する人たちが結構いてバイト先の爺様
も赤城の機関室に居て、船の底で働いていたから船の火災も知らずに,そのうちに総員退避の命令で海に飛び込んだって!
暗くなってから捜索船が来て助かって・・・その後の戦争の話は聞いてないけど、船乗りを続けて最後は横浜港のパイロットをして・・・爺さん一番お金持ちだった・・・海軍の年金に船乗りの年金、横浜港のパイロットの年金も貰っていてよく遠くまで戦友会とか行ってましたよ。もう一人は少し目が悪くて
ゼロ戦には乗れずに艦上爆撃機乗りで2回撃墜されて、生き残りケガで本土の病院で入院中に終戦・・・ラバウルに長く居て
飯だろうが酒だろうが豊富にあったって、海軍は船出てた後は補給が出来ないからだそうで?帰ってきてからの方が食い物に困ったって・・・バイトの合間に聞いていただけだから
もっと聞いておけばよかったなと・・・
  • (1)
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GFさん
日本の撃墜王なら西澤でしょう!
最後まで戦闘機に乗っていたら戦死する事も無かったのに・・・orz
生きてたら、343空に引き抜かれてたかもねo(^-^)oワクワク

坂井三郎においては、ゴーストライターの噂も(・ω・)
  • (1)
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おっぺけさん
戦後70年以上経ってもまだまだ色々と、、、
忘れてはいけませんね。

小学生の頃、田舎に行くと爺ちゃんの部屋に軍服と帽子がいつも飾ってありました。
確か陸軍の制服だったかと、、

うちの爺ちゃんは一切私には戦争の話はしなかったですね。
何か思う所があったと思いますが、今となっては聞くことが出来ません、、、
  • (1)
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エディーローソンさん
紫電改が、もっと早くに、大量生産できてたら‥‥たられば、なしですね♪
(@ @)ノシEDDIE 1627996386091M.jpg
  • (1)
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matsuさん
海でなくて,陸で墜落ですか・・・.
これまで発見されなかったというのも,可哀想ですね.
  • (1)
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toshiさん
現在の日本を守ってくれた英霊に感謝です。
この時期になると特に思いを馳せますね。
  • (1)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
>くれないの?デブっ!(ター坊改め。略称「くれデブ」)さん

おはようございます♪

私の父のように特攻隊なのに出撃が見送られて生き残った人もいれば、数時間の違いで出撃して命を落とす人もいる。

戦争の残酷さですね(--)
  • (0)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
>軽量化以上に体重が増えたさん

おはようございます♪

茂原基地は首都防衛基地のひとつなので、特攻には行かせない比較的技量のあるパイロットが多かったようですが、それでも性能も上がった米軍機に経験の積んだ米パイロットの組み合わせと、性能ではいかんともしがたい旧式零戦と経験の浅いパイロットでは、相手にならなかったようです。(><)
  • (0)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
>Maxさん

おはようございます♪

コロナだとかなんだかんだ言っても、自由にバイクで遊べる今の時代が続くよう不断の努力をすることが、私たちの使命と思ってます(^^)
  • (0)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
>パチ10(キュインキュインキュインキュインキュイ~~~ン♪♪♪)さん

おはようございます♪

バイクでも、ベテランライダーと免許取り立てライダーでは運転技量に雲泥の差があるのに、マシンの性能差が加わったら、相手にならない戦いになるのと同じですね。(==)
  • (0)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
>シェフさん

おはようございます♪

お知り合いで赤城に...縁がありますね。

家内の母方の実家の叔父は、赤城の航空機関将校で97艦攻だか99艦爆だかの整備隊長をしていたそうで、真珠湾からミッドウェーまでずっと赤城に乗艦していたそうです。

赤城が沈められた後は乗艦する空母が無くなって、鈴鹿で地上勤務していたとのことでした。

一度だけ本人と話をしたことがありますが、被弾や故障して着艦しそこない海に落ちたパイロットの救助は、航空機関兵の仕事で、命綱1本を体に巻いてふんどし1丁で海に飛び込んで救助するのだとか...パイロットは空母の中では最も気位が高い人たちだったそうですが、航空機関兵には一目置いていたとと言ってました。(^^)
  • (0)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
>GFさん

おはようございます♪

私は、徹底した合理主義で戦った岩本徹三の生き方に感銘してます。(^^)空戦=仕事と置き換えると、彼の空戦スタイルは現代に通ずる示唆がたくさんあります。
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
>おっぺけさん

おはようございます♪

戦場で辛い日々を過ごしたり、悲惨な目にあった人ほど、余計なことは言わなくなるようですね。(><)
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ゴリフさん
父方の爺さんは満州事変から参戦したバリバリの軍人なんですが、
母方の爺さんは、バカだったので兵隊になれずなんと学校の先生をやっていました。
それはそれですごい時代だったなあと
  • (1)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
>エディーローソンさん

おはようございます♪

太平洋戦争の引き金となった「ハルノート」...そのルーツは日露戦争に向けた日本の欧州での戦費捻出計画とそれに応じたユダヤ資本が深くかかわっていて、日清戦争日露戦争による日本の満州権益拡大と戦費捻出における日本政府の密約や密約履行を拒否した陸軍の暴走...いろいろな要素が結果として出てきたものなんですよね。(==) この辺の話は日本のマスコミでは全く取り上げないですが、アメリカのテレビドキュメンタリーなんかでは時々放送されてます。
  • (0)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
>matsuさん

おはようございます♪

山間の湿地に墜落して地中深く埋まっていたようです。地元の人はこの辺に落ちたと知っていたようですが、この日の正午に終戦となり軍の機能が停止したので、捜索もきちんとされなかったようです。(==)ひどい話です。
  • (0)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
>toshiさん

おはようございます♪

今の世界は、この時と時間軸が連動していることを忘れてはなりませんね。こういう悲惨な時代を経て今の日本があると言うことを改めて肝に銘じたいと思います。(--)
  • (0)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
>ゴリフさん

おはようございます♪

あの時代は、秀才の進学は
1.陸軍士官学校
2.海軍兵学校
3.東京大学
4.京都大学...
だったと聞いたことがあります。

父の兄は陸軍士官学校からパイロットとなり戦死しました。
私が小さいころ近所のお年寄りから、戦死した叔父のことをよく聞かされましたが、この地域ではまれにみる秀才で剣道も抜群に強くて、戦死したのが惜しい惜しいとよく言われました。
  • (0)
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たかぴーさん
未だに戦時中の色々な資料が発見されて・・・
真実というか真相が明らかでないものの探索がつづけられている状態ですね〜(^^ゞ

終戦直後は混乱していたとは言えなんかこの時期になると考えさせられますね(^^ゞ
  • (1)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
>たかぴーさん

こんばんわ♪

戦争関係の資料は、戦災で焼けてしまったものだけでなく、敗戦と同時に証拠隠滅で焼かれた軍関係資料も多いので、ある意味空白が多いですね。(--)
  • (0)
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さすらいのライダーさん
こんにちは。

今の日本の平和は、自らの尊い命を捧げた英霊たちの功績によって成り立っていることを忘れてはなりません。
毎年この時期は、すべての国民がかつての大戦と、現在の平和にについて今一度考えてみる大切な機会です。

北海道では、殆どこのような企画展は開催される事は有りません。残念でなりません…
  • (1)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
>さすらいのライダーさん

こんばんわ♪

こういう戦争の遺跡というか傷跡をたどり、過去を振り返り、反省するというのはとても大切なことですね。

この時期は、原爆や空襲、沖縄戦と、日本の被害者的なものがクローズアップされがちですが、多かれ少なかれ日本も他国に対して同じようなことをしていたわけで、すべてをありのままに知る必要もあると思います。(^^)
  • (0)
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きたきつねさん
コンにちは。ゼロ戦の構造について詳しくご紹介頂き、ありがとうございます。
まるで現在のモトクロッサーのようなエンジン構造に驚かされます。耐久性より、軽量性・瞬発性最優先の思想。それこそ命の駆け引きがそこにあるので、わずかな性能差が勝負を決めます。日本の技術者達が苦心した跡が偲ばれます。
  • (1)
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ぷっちゃまんさん
ピストンなんかの金属部品には男のロマンが凝縮されてます。
(昭和の男限定ですが)
まだ形が残ってるのが凄い!
ただバイクには乗りたくてもゼロ戦には乗りたくないです!
  • (1)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
>きたきつねさん

こんばんわ♪

当時の航空機のエンジンは、考えられる最新技術で造られているので、今日のレーシングマシンのようにぜい肉をそぎ落とし、精緻な加工がされ、緻密に埋め込まれた冷却フィンは極薄の包丁の刃を並べたようです。

こういう見えない技術の積み重ねが、戦後の日本工業技術の発展に貢献したのは事実だと思います。(^^)
  • (0)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
>ぷっちゃまんさん

こんばんわ♪

70年以上前のピストンやシリンダーが今の量産エンジンより精緻に造られていることに驚愕します。(@o@;

各務ヶ原航空宇宙博物館にある飛燕のハ40発動機のクランクメタルベアリングを見るとため息が出ます(^^) 1628428814194M.jpg
  • (0)
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NINJA BAKAさん
生きた本物の歴史ですね!
これらの品々が訴えかけてくることを、真面目に感じることができる感性をちゃんと持ち続けなければ。
日本を守って亡くなっていった英霊の皆様に申し訳ないですもん。
  • (1)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
>NINJA BAKAさん

こんにちは♪

東西ドイツが統合した時の西ドイツ大統領(そのまま新生ドイツ大統領)であったリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー氏が連邦議会で行った演説での一節は、有名です。

“過去に目をつむる者は、現在も盲目であり、未来にもまた同じ過ちを犯すだろう。” 1628839874527M.jpg
  • (0)
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キム(first penguin) ヨガの眠り中さん
チバアヒルさん、どうも!
パラオ国旗の意味を知った時に、改めて偉大な祖先に敬意を持ちました。
白人VS有色人種の戦いという意味も大東亜戦争にはあったそうです。
アジアを牽引して統治した国を豊かにして、白人の植民地政策から解放する。
そんな大義を持てる人が今の日本にいるのかな?(汗)
  • (0)
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
>キム(first penguin)またしても緊急事態宣言中さん

お久しぶりです♪

太平洋戦争は、多面的な要素が絡んでいて、戦後の戦勝国定義の日本の侵略戦争がステレオ化され多くの日本人がそのように洗脳されていますが、現実はもっと複雑です。

西欧の東南アジアの植民地化の侵略と、それに遅れての帝政ロシアの植民地獲得の南下政策という危機感から、日清戦争、日露戦争で緩衝地帯を作り日本の植民地化を回避しようとする当時の日本がいたわけで、その大義として「五族協和」「大東亜共栄圏」がお題目として叫ばれました。
言っていることとやっていることが食い違うのは国際社会ではアルアルですが、少なくとも太平洋戦争をきっかけにアジアが植民地から独立したということでは、明治維新ならぬアジア維新であると多くの非植民地住民は思ったと思います。

世界的に見てもパラオのほかにも、フィンランドとか、トルコとか、大国に蹂躙された国ほど親日的というか日本に好意を寄せる国はあまたあります。

以前にアメリカのドキュメンタリー番組を見ていたら、アメリカ政府の公開された太平洋戦争に至る機密政府文書から、日本が戦争を踏み切るきっかけとなった「ハルノート」の裏には、日露戦争ための戦費が作れなくて困っていた日本にユダヤ資本を通じてアメリカが資金貸付して、もし日本が勝った場合は満州の権益を山分けするという密約があったのに、日露戦争に買ったら日本が慢心して密約履行を無視し続けたというくだりがありました。
真偽のほどはわかりませんが、国際社会は複雑な関係が絡んでいるので、5.15事件で欧米に優柔な態度をして暗殺された犬養毅が、「話せばわかる」と行ったのもこのことも含んでいたのかもしれません。(--)
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