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チバアヒル(令和の馬笑)さん
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コメント(全34件)
運命とはいえ、あと数時間出撃命令が遅かったら…
今を生きる者として、哀悼の意と不戦の誓いを御霊に捧げます。
父親の実家の側に小さな飛行場が有ったそうですが空襲になると全機着陸して避難してたそうです
中には状況のわかってる指令も居たんですね
もうすぐ終戦記念日など、戦争の歴史の日々がありますが、今を生きる者として何が出来るか考え、行動しようと思います。
明日の為に、何をすべきか。
では、また
出撃命令出てなければ命落とさずに済んだのに~って
思ってしまうけど当時はそんな状況じゃなかっただろうし^^;
戦争末期だとパイロットの練度も低くなってしまったのかな?
相手の戦闘機に簡単に落とされてしまったようだし^^; もちろん
戦闘機の性能もあるだろうけど
も赤城の機関室に居て、船の底で働いていたから船の火災も知らずに,そのうちに総員退避の命令で海に飛び込んだって!
暗くなってから捜索船が来て助かって・・・その後の戦争の話は聞いてないけど、船乗りを続けて最後は横浜港のパイロットをして・・・爺さん一番お金持ちだった・・・海軍の年金に船乗りの年金、横浜港のパイロットの年金も貰っていてよく遠くまで戦友会とか行ってましたよ。もう一人は少し目が悪くて
ゼロ戦には乗れずに艦上爆撃機乗りで2回撃墜されて、生き残りケガで本土の病院で入院中に終戦・・・ラバウルに長く居て
飯だろうが酒だろうが豊富にあったって、海軍は船出てた後は補給が出来ないからだそうで?帰ってきてからの方が食い物に困ったって・・・バイトの合間に聞いていただけだから
もっと聞いておけばよかったなと・・・
最後まで戦闘機に乗っていたら戦死する事も無かったのに・・・orz
生きてたら、343空に引き抜かれてたかもねo(^-^)oワクワク
坂井三郎においては、ゴーストライターの噂も(・ω・)
忘れてはいけませんね。
小学生の頃、田舎に行くと爺ちゃんの部屋に軍服と帽子がいつも飾ってありました。
確か陸軍の制服だったかと、、
うちの爺ちゃんは一切私には戦争の話はしなかったですね。
何か思う所があったと思いますが、今となっては聞くことが出来ません、、、
(@ @)ノシEDDIE
これまで発見されなかったというのも,可哀想ですね.
この時期になると特に思いを馳せますね。
おはようございます♪
私の父のように特攻隊なのに出撃が見送られて生き残った人もいれば、数時間の違いで出撃して命を落とす人もいる。
戦争の残酷さですね(--)
おはようございます♪
茂原基地は首都防衛基地のひとつなので、特攻には行かせない比較的技量のあるパイロットが多かったようですが、それでも性能も上がった米軍機に経験の積んだ米パイロットの組み合わせと、性能ではいかんともしがたい旧式零戦と経験の浅いパイロットでは、相手にならなかったようです。(><)
おはようございます♪
コロナだとかなんだかんだ言っても、自由にバイクで遊べる今の時代が続くよう不断の努力をすることが、私たちの使命と思ってます(^^)
おはようございます♪
バイクでも、ベテランライダーと免許取り立てライダーでは運転技量に雲泥の差があるのに、マシンの性能差が加わったら、相手にならない戦いになるのと同じですね。(==)
おはようございます♪
お知り合いで赤城に...縁がありますね。
家内の母方の実家の叔父は、赤城の航空機関将校で97艦攻だか99艦爆だかの整備隊長をしていたそうで、真珠湾からミッドウェーまでずっと赤城に乗艦していたそうです。
赤城が沈められた後は乗艦する空母が無くなって、鈴鹿で地上勤務していたとのことでした。
一度だけ本人と話をしたことがありますが、被弾や故障して着艦しそこない海に落ちたパイロットの救助は、航空機関兵の仕事で、命綱1本を体に巻いてふんどし1丁で海に飛び込んで救助するのだとか...パイロットは空母の中では最も気位が高い人たちだったそうですが、航空機関兵には一目置いていたとと言ってました。(^^)
おはようございます♪
私は、徹底した合理主義で戦った岩本徹三の生き方に感銘してます。(^^)空戦=仕事と置き換えると、彼の空戦スタイルは現代に通ずる示唆がたくさんあります。
おはようございます♪
戦場で辛い日々を過ごしたり、悲惨な目にあった人ほど、余計なことは言わなくなるようですね。(><)
母方の爺さんは、バカだったので兵隊になれずなんと学校の先生をやっていました。
それはそれですごい時代だったなあと
おはようございます♪
太平洋戦争の引き金となった「ハルノート」...そのルーツは日露戦争に向けた日本の欧州での戦費捻出計画とそれに応じたユダヤ資本が深くかかわっていて、日清戦争日露戦争による日本の満州権益拡大と戦費捻出における日本政府の密約や密約履行を拒否した陸軍の暴走...いろいろな要素が結果として出てきたものなんですよね。(==) この辺の話は日本のマスコミでは全く取り上げないですが、アメリカのテレビドキュメンタリーなんかでは時々放送されてます。
おはようございます♪
山間の湿地に墜落して地中深く埋まっていたようです。地元の人はこの辺に落ちたと知っていたようですが、この日の正午に終戦となり軍の機能が停止したので、捜索もきちんとされなかったようです。(==)ひどい話です。
おはようございます♪
今の世界は、この時と時間軸が連動していることを忘れてはなりませんね。こういう悲惨な時代を経て今の日本があると言うことを改めて肝に銘じたいと思います。(--)
おはようございます♪
あの時代は、秀才の進学は
1.陸軍士官学校
2.海軍兵学校
3.東京大学
4.京都大学...
だったと聞いたことがあります。
父の兄は陸軍士官学校からパイロットとなり戦死しました。
私が小さいころ近所のお年寄りから、戦死した叔父のことをよく聞かされましたが、この地域ではまれにみる秀才で剣道も抜群に強くて、戦死したのが惜しい惜しいとよく言われました。
真実というか真相が明らかでないものの探索がつづけられている状態ですね〜(^^ゞ
終戦直後は混乱していたとは言えなんかこの時期になると考えさせられますね(^^ゞ
こんばんわ♪
戦争関係の資料は、戦災で焼けてしまったものだけでなく、敗戦と同時に証拠隠滅で焼かれた軍関係資料も多いので、ある意味空白が多いですね。(--)
今の日本の平和は、自らの尊い命を捧げた英霊たちの功績によって成り立っていることを忘れてはなりません。
毎年この時期は、すべての国民がかつての大戦と、現在の平和にについて今一度考えてみる大切な機会です。
北海道では、殆どこのような企画展は開催される事は有りません。残念でなりません…
こんばんわ♪
こういう戦争の遺跡というか傷跡をたどり、過去を振り返り、反省するというのはとても大切なことですね。
この時期は、原爆や空襲、沖縄戦と、日本の被害者的なものがクローズアップされがちですが、多かれ少なかれ日本も他国に対して同じようなことをしていたわけで、すべてをありのままに知る必要もあると思います。(^^)
まるで現在のモトクロッサーのようなエンジン構造に驚かされます。耐久性より、軽量性・瞬発性最優先の思想。それこそ命の駆け引きがそこにあるので、わずかな性能差が勝負を決めます。日本の技術者達が苦心した跡が偲ばれます。
(昭和の男限定ですが)
まだ形が残ってるのが凄い!
ただバイクには乗りたくてもゼロ戦には乗りたくないです!
こんばんわ♪
当時の航空機のエンジンは、考えられる最新技術で造られているので、今日のレーシングマシンのようにぜい肉をそぎ落とし、精緻な加工がされ、緻密に埋め込まれた冷却フィンは極薄の包丁の刃を並べたようです。
こういう見えない技術の積み重ねが、戦後の日本工業技術の発展に貢献したのは事実だと思います。(^^)
こんばんわ♪
70年以上前のピストンやシリンダーが今の量産エンジンより精緻に造られていることに驚愕します。(@o@;
各務ヶ原航空宇宙博物館にある飛燕のハ40発動機のクランクメタルベアリングを見るとため息が出ます(^^)
これらの品々が訴えかけてくることを、真面目に感じることができる感性をちゃんと持ち続けなければ。
日本を守って亡くなっていった英霊の皆様に申し訳ないですもん。
こんにちは♪
東西ドイツが統合した時の西ドイツ大統領(そのまま新生ドイツ大統領)であったリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー氏が連邦議会で行った演説での一節は、有名です。
“過去に目をつむる者は、現在も盲目であり、未来にもまた同じ過ちを犯すだろう。”
パラオ国旗の意味を知った時に、改めて偉大な祖先に敬意を持ちました。
白人VS有色人種の戦いという意味も大東亜戦争にはあったそうです。
アジアを牽引して統治した国を豊かにして、白人の植民地政策から解放する。
そんな大義を持てる人が今の日本にいるのかな?(汗)
お久しぶりです♪
太平洋戦争は、多面的な要素が絡んでいて、戦後の戦勝国定義の日本の侵略戦争がステレオ化され多くの日本人がそのように洗脳されていますが、現実はもっと複雑です。
西欧の東南アジアの植民地化の侵略と、それに遅れての帝政ロシアの植民地獲得の南下政策という危機感から、日清戦争、日露戦争で緩衝地帯を作り日本の植民地化を回避しようとする当時の日本がいたわけで、その大義として「五族協和」「大東亜共栄圏」がお題目として叫ばれました。
言っていることとやっていることが食い違うのは国際社会ではアルアルですが、少なくとも太平洋戦争をきっかけにアジアが植民地から独立したということでは、明治維新ならぬアジア維新であると多くの非植民地住民は思ったと思います。
世界的に見てもパラオのほかにも、フィンランドとか、トルコとか、大国に蹂躙された国ほど親日的というか日本に好意を寄せる国はあまたあります。
以前にアメリカのドキュメンタリー番組を見ていたら、アメリカ政府の公開された太平洋戦争に至る機密政府文書から、日本が戦争を踏み切るきっかけとなった「ハルノート」の裏には、日露戦争ための戦費が作れなくて困っていた日本にユダヤ資本を通じてアメリカが資金貸付して、もし日本が勝った場合は満州の権益を山分けするという密約があったのに、日露戦争に買ったら日本が慢心して密約履行を無視し続けたというくだりがありました。
真偽のほどはわかりませんが、国際社会は複雑な関係が絡んでいるので、5.15事件で欧米に優柔な態度をして暗殺された犬養毅が、「話せばわかる」と行ったのもこのことも含んでいたのかもしれません。(--)