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杉さん
温泉地をめぐる夏のドライブ、これまで関越道と上信越道を走り群馬県は安中(あんなか)で一泊、
これからは群馬県の名湯・草津温泉へ向かいます(2024.07.01)
2日目のつづき、浅間二輪車展示館
安中の宿を出発し上信越道で軽井沢へ、そこから浅間さわやか街道を行きます。
すると、偶然「浅間記念館・二輪車展示館」を発見、ここでは昭和の名車が見られるので立ち寄ってみました。
この地は約70年前、「浅間火山レース」が開催されたモータースポーツ発祥の地、
当時は二輪車メーカーが200社以上あり、生き残りかけ 熾烈な販売合戦が 繰り広げられていたという。
だが欧米と比べ日本は技術的にレベルが低いため、オートバイ産業の育成を目的にレースを開催されたという。
また、舗装された本格的なレース場もなく、浅間山の火山地帯のダートで競うことに、
これは各社 性能をアッピールする絶好のチャンス、優勝すれば会社の発展間違いなし、社運を賭けた戦いが勃発、
だが レースなんて初めてのこと、各社悪戦苦闘、
4ストはピストンが溶けたり、2ストはシリンダーが真っ赤に焼けたり メカニックたちは頭を抱えます。
そしてレース結果は、125ccクラスはヤマハが1~4位を独占、スズキは5~7位、ホンダは完敗だったとか、
だが 350ccクラスは ホンダが1~3位を独占、
やはり技術の3社は生き残り、日本を代表するメーカーへと躍進、拍手喝采です。
1959年(昭和34年) 昌和製作所(静岡県沼津市)の工場レーサー・ライトクルーザーSL、(浅間火山レース 出場車)
2スト 単気筒 125cc 当時は画期的な ロータリーディスクバルブを採用、
この年、マン島TTレース(イギリス)にも参戦し、ホンダ・スズキ・トーハツと激戦、
だが 10周目で無念のリタイヤ、でも強豪相手によく善戦しました。
その後、ヤマハの傘下になったという。
ライダーは河合稔(16才)、後に トヨタのワークスドライバーになります。
彼は私が勤めるディーラーの新車発表会に 来てくれました。
当時は花形のレーサー、皆で大歓迎です。
そのころ、丸善ガソリン100ダッシュ のCM「Oh!モーレツ!」で、一大旋風を巻き起こした小川ローザと結婚、
順風満帆な生活をしていたが とんだ悲劇に、
トヨタセブンでテスト走行中、コースアウトし 彼は死亡(27才)、
フジテレビ「夜のヒットスタジオ」に出演中だった小川ローザは、「初恋の人」を歌いながら 泣き崩れたという。
それを 見ていた皆が涙した悲しい出来事でした。
1963年(昭和38年) ホンダ ベンリィ スーパースポーツ CB92
OHC 空冷 2気筒 125cc
初めて「CB」と名乗ったバイク、
独特な形のタンクは「ドクロタンク」と呼ばれていたという。
ホンダはいう「これは浅間レースに向けたホンダの市販レーサー、無数のスポーツモデルが世に出てゆくがこのCB92こそ そのルーツ」だと、
世界制覇を目指すホンダの意気込みは、相当なものだと感じられます。
このバイクで浅間火山レースに出場したのは、天才的レーサー・北野元さん、
1959年には250ccクラスに出場し、見事優勝を成し遂げています。
彼は後に 日産のワークスドライバーとして活躍します。
レースドニッポンでは Z432で優勝、日本グランプリでは レーシングマシンR381を操り優勝、
また、富士ツーリスト トロフィーでは GTRで優勝と、ニッサンが発展したのも彼の輝かしい功績によるものかも、
1955年(昭和30年) モナーク工業 モナークF1(浅間仕様)
4スト 空冷 単気筒 250cc
会社代表は目黒製作所・社長の娘婿、
目黒からエンジン供給を受け、オートバイを製造していたという。
そして より高性能化を目指しM3(250cc)を発売し、スピードマニアを魅了させます。
だが 販売店からの不渡手形により 敢え無く閉鎖、
そこで目黒の出資により「モナーク工業」を設立、
そして登場したのが このモナークF1、浅間火山レースでは堂々の4位と メーカー賞にも輝きました。
だが翌年、レーサーレプリカを発表するも 経営不振で またもや倒産、
製造技術は世も認めるが、どうやら販売で苦戦したらしい。
そういえば、トヨタは かつてトヨタ自動車販売(株)と、トヨタ自動車工業(株)の工・販 2本立てで経営していました。
当時、自販の神谷正太郎は 販売の神様、ゆえに「販売のトヨタ」といわれるようになったとか、
対するは「技術の日産」です。
1963年(昭和38年) ブリヂストンサイクル工業 ホーミー55(一番手前のバイク)
2サイクル 強制空冷 単気筒 55c
タイヤメーカーから分社化した会社、
これまで自転車への取付けエンジンを製造していたが、事業を発展させ製造したのがこのモペット、
大衆需要に応え遠心クラッチを採用し、カブと同じステップスルー型で登場、
また 53ccで 二人乗り需要にも対応したという。
だが1958年(5年前)に発売されたホンダ・スーパーカブの人気は凄まじかった。
BSは 2サイクルで混合燃料、煙臭く女性客に不人気、
ホンダは4サイクル、しかも販売店が多くメンテナンスも安心です。
ブリヂストンは社運を賭け、オートバイ・チャンピオンを開発します。
そこでブリヂストンはいう「BSというブランドなら 絶対に売れる成功する」と、
ところが ビッグ3のホンダ・スズキ・ヤマハが快進撃、この3社でほぼ市場を占拠、
ブリヂストンが入り込む余地は少なく 二輪車界から撤退、どうやら絶対売れるという驕りが失敗の基だったのかも、
1959年(昭和34年) ヤマハ スーパースポーツ YDS1
2スト 空冷 2気筒 ツインキャブ 250cc 20PS
第2回 浅間火山レースで、ヤマハは新設計のファクトリーマシンを投入し、1位から3位を独占する快挙を遂げます。
それをベースに開発した市販車が このYDS1、国産初の本格的スポーツモデルの誕生です。
これは自分史上一押しのマシン、一文字ハンドルにメッキスポーツフェンダーと洗練されたスタイル、
それに タコメーターを装備し、エアクリーナーエレメントはむき出しで最高速は140キロ、
また、レース用パーツも用意され、各地のレースでも大活躍、さすがヤマハクォリティです。
そんなオシャレなスポーツマシンに、当時の走り屋を夢中にさせました。
ヤマハはいう「ヤマハスポーツを掲げる以上、世界で通用するモデルでなければ」と、
並々ならぬ試行錯誤と、メカニックたちの情熱が成し遂げた成果に違いない。
1953年(昭和28年) 丸正自動車製造 ベビーライラック SF
4スト 空冷単気筒 90cc
ライラックとは 昔よく耳にしたネーミングです。
案内板によると 静岡県浜松にあった会社で、伊藤社長は本田宗一郎さんの弟子だったという。
伊藤社長はいう「ホンダの真似はするな、ドリームと同じでは面白みがない」と、
特徴的なのは チェーンではなくシャフトドライブ方式を採用、当時としては画期的なものだったという。
ライラックは 第一回 浅間高原(火山)レースに挑みます。
マシンはライラックSY(250cc)、何んとホンダを抑え見事優勝 相当な技術者集団であったらしい。
このベビーライラック SFは独特なスタイルで、女性にも乗りやすく評判だったという。
その後 数々の名車を世に送り出すも、時代の波に飲まれ1967年に倒産、
だが その後、ファンクラブが結成されたという。
倒産した会社のファンクラブなんて聞いたことがない。
どうやら 彼らが造った製品は、称賛に値する素晴らしいものであったらしい。残念でなりません。
1964年(昭和39年) ホンダ モンキー CZ100
4スト 空冷 OHV 50cc 4.5ps
何んと モンキーまで展示してありました(一番手前のバイク)
案内板によると、ホンダが経営する遊園地・多摩テックで、子供たちにバイクの運転を楽しんでもらおうと ミニバイクを投入、
それは スーパーカブのエンジンを搭載したものだとか、
これが好評で市販することに、
そこでタンクとシートはスポーツカブ用を採用し、一般走行可能な仕様にしたという。
また、海外でも人気になり、イギリスやフランスへも輸出されたといいます。
まさにホンダは ミニバイクのパイオニア的存在でもあります。
さて 次は、山田輪盛館やトーハツ、それにマーチンなどの珍しいバイクを幾つか紹介します。
つづく
コメント(全12件)
もっともトヨタも「C」で始まるネーミングに拘り過ぎて「カムリ」は「冠」という説もありましたね。(^^)
初めての浅間二輪車展示館 初めて見るバイクもありちょっと感動でしたよ。
おっしゃる通りネーミングって大事ですよね、これによってユーザーの心を掴めますものね。
陸王は陸の王者とは知らなかった、でもそんな感じですね。それに何故トヨタはCに拘ったのかコロナとかクラウンとか気になります。
ひと回り上の友達が陸王を日活撮影所からがめてきたのが
2台あって・・・でも60km出たかで無かったかの記憶が有ります・・・売るときは言ってねってお願いしてましたが
借金のかたに持って行かれたそうで?
おやじさんが、銀幕のスターだったからムチャクチャな
事ばっかりしていて・・・陸王って750ccだったんですね?
陸王が借金のかたに持って行かれたとは残念でしたね。
自分が初めて見たのは子供の頃で祖父の友人が乗っていまして、このメカニカルなエンジンに取りつかれてしまった次第です。
当時 機械は発動機しか見たことがなくバイクは憧れの的でした。
あのレースが、日本の二輪業界が発達し世界に名を轟かせることになるきっかけだったんだろうなぁ。
ゴツゴツした瓦礫や砂埃、そんな中を走り競い合わせていただなんて、今では考えられませんもん。
でも、あのレースがあったからこそ!
なんでしょうね。
おっしゃる通りこのレースで日本の二輪車業界が躍進したことは間違いないでしょうね。
各社のメカニックは徹夜続きでマシンの性能向上に取り組んだようですよ、現在の残業規制などの労基法があったら世界一にはなれなかったでしょうね。
そんな浅間火山レースの雰囲気も楽しめましたよ、また見に行きたくなる魅力溢れる二輪車展示館でした。
当時は国内に200社以上もあったんですね。。。 (+_+) トーハツは今でもボードの船外機で生き残っていますね。そういえば、用品メーカーのコミネさんも昔はバイクを作っていたとか。車がまだまだ高値の花だったせいか、旺盛な需要がその分バイクにあったのでしょうね。その中でも技術的にトップ集団が生き残るというのは当然に思うのですが。ホンダ・ヤマハ・スズキは生き残れて、丸正さん・目黒は生き残れたなかったのはアフターサービスとかの違いなのかな!?なんて思いました。
ネーミングセンスはホントにダジャレですね。 (^^♪ 当時の開発者達は真剣そのものだったんでしょうけど。
戦後の復興期とはいえバイクメーカーがこれほどたくさんあったとは驚きです。
それだけ生存競争も激しく各社徹夜で開発に挑んでいたのでしょうね。
メグロは親が乗っていたので思い入れがあるのですが残念です。でもカワサキW1Sにノウハウが生かされているようで救われた思いでしょうね。
ネーミングはチャンピオン・マッハ・ウルフとかもありユニークで各社の思い入れも感じられますね。
二輪車展示館には行ったことが無いんですが、移転したんですね。
バイクメーカーが乱立し、技術を競って浅間を走っていた当時のバイク、見に行きたいと思います。
今ではバイクも電子制御で簡単にエンジンがかかり、125ccでもトラコンが付いているバイクも出てきて便利になりました。
私の世代もエンジンをかけるのが儀式?というか、チョークを引きながらアクセルを少し捻って、なんて世代ですので、今のバイクの凄さは身に沁みます。
でもこれらの古いバイクがあったから今のバイクがあるんですよね。
感慨深いです。
二輪車展示館は一度行ってみたいと思っていたので今回偶然見つけラッキーでした。そこはオートバイの創成期がみられる貴重な博物館でしたよ。
現代のバイクとは次元が違いますが当時のエンジニアたちのアイディアが見られ、おっしゃる通り感慨深いです。
他ではなかなか見られないバイクもあり楽しめますのでmar-cup1さんも機会がございましたら是非訪れてみてください♪
当時の技術者も必死でしたでしょうね。
今のモトGPは日本メーカーはやられっぱなし。。
今の技術者さん達も頑張ってもらいたいです!
そうなんです第1回浅間火山レースが開催されたのは昭和30年だというので自分はまだ4才、かなり昔のことですものね。
自分は子供のころからバイクが好きだったので雑誌などで知りましたが、徹夜続きで命がけのようだったと言います。
だからメイドインジャパンが世界制覇したんでしょうね。時代は変わり今はムリかも知れませんが頑張ってもらいたいですね。