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岩出山は、若き伊達政宗が過ごした場所で、もともとは岩手沢と呼ばれていたのを徳川家康により岩出山と名を代えたと言われています。
伊達政宗というと仙台のイメージが強いのですが、もともとは米沢藩にいたのですが豊臣秀吉に岩手県の今でいう大崎市に転封(左遷)させられて、秀吉亡き後関ヶ原の戦いで徳川家康に加勢して仙台に上ったという歴史があります。
岩出山城跡にある白い伊達政宗像は、みなさんご存じの小田原攻め遅参の逸話の白装束ということです。SLはオマケ♪
この話を多少敷衍しますと、天正18年(1590年)伊達政宗は秀吉から小田原攻めに参陣を命じられたのに、半年も出陣が遅れてしまい、白装束(死を覚悟)で秀吉に拝謁しました。それまで命令に背く政宗を殺せと激怒していた秀吉は、政宗の胆力にすべてを許したと言われています。
しかしその仕置きとして米沢から岩出山に飛ばされたというわけです。
しかし、抜け目のない政宗は、秀吉亡き後豊臣から徳川に時代が移るのを読んで、関ヶ原の戦い、大坂の陣ともに、徳川に加勢して、仙台で一大国家を築いたのは知るところです。
14:30 封人の家 この場所は、岩手と山形の県境であり分水嶺なので、まさに昔から国の境というべき場所のようです。
元禄2年5月15日 尿前の関をやっと超えた芭蕉たちは、仙台領と境を接する新庄領堺田村の庄屋兼国境役人を務めていた旧有路家に泊めてもらいます。この時は雨で翌16日も泊ったとのことです。なお、封人とは国境役人という意味だそうです。
ここで詠まれた句があの有名な
蚤虱 馬の尿する 枕もと
翻訳:こうやって貧しい旅の宿で寝ていると蚤や虱に苦しめられる。その上宿で馬を飼っているので馬が尿をする音が枕元に響いてくる。
封人の家は見学できるので、芭蕉の泊まった場所を見学させてもらうと、奥座敷の上等な床の間で、確かにこの地方独特の南部曲家で馬もいますが、蚤虱馬の尿とは無縁な部屋です。
ここでも石巻のケースと同じ話法で、栄華を極めた平泉から天童山寺に行くのでそれらを引き立てるため、尿前の関にいることを示すためもあって「馬の尿、枕元」にかけて宿を貧相に表現したと考えられます。
14:45 山刀伐峠(なたぎりとうげ)
元禄2年5月17日 封人の家を出た芭蕉たちは、用心棒を付けてもらい道も険しく山賊もいるという山刀伐峠を越えて尾花沢に向かいました。
あるじのいはく、これより出羽の国に大山を隔てて、道定かならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。
さらばといひて人を頼み侍れば、究竟の若者、反脇差を横たへ、樫の杖を携へて、われわれが先に立ちて行く。
今日こそ必ず危きめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後に付いて行く。
あるじのいふにたがはず、高山森々として一鳥声聞かず、木の下闇茂り合ひて夜行くがごとし。
雲端につちふる心地して、篠の中踏み分け踏み分け、水を渡り、岩につまづいて、肌に冷たき汗を流して、最上の庄に出づ。
かの案内せし男のいふやう、「この道必ず不用のことあり。恙なう送りまゐらせて、仕合はせしたり。」と、喜びて別れぬ。
後に聞きてさへ、胸とどろくのみなり。
いよいよ奥のカブ道も山形に入り、後半となります。
さあて、何人がこれまでの話についてきているかな...(笑)
コメント(全24件)
元々日帰りツーの範疇ですので、趣が変わるとこんな感じで周遊できるんだなぁ
と再発見できてますw
週末、天気に恵まれたなら冬季閉鎖前に行ってみようかなぁ~
語れない
(-_-;)
・・・・え
まだ前半だったんですか
それだけ壮大な旅をしてきたんですね~♪
昔は用心棒を付けないと危険な場所もあるのね^^; 今じゃそんな
危険な場所なんてパチ屋くらいしか無いですね~(爆)
今日も諭吉さんが何人も撃ち死にしてしまいました~><
最後までお読みします。
想像するのも楽しいです。( ^ω^)
東北の方ではカツ丼はソースカツが主流だったんですね〜(^^;
「刀」とか、「尿」とか、あまり馴染みのない漢字が用いられている地名ですが、やはり、いわくと言いますか、語源のようなものが有るんですねぇ〜w
やっぱり、物語は面白く、楽しくないとたくさんの人に読んでもらえないですからね。
一度は行って見たいと思っていますがバイクだと寒そうです。
我が県に入ってからは私の知識でも少しは通用します。
ソースかつ丼と言えば駒込か会津だと思っていました。
そのよーなルーツがあったとは・・・。
あの城東バッグとナナハンで全國制覇されてた時代ですね
私からするとチバアヒルさんが西行法師状態です