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チバアヒル(令和の馬笑)さん
11:30 岩沼 武隈の松(たけくまのまつ)
「武隈の松」は、根元から二本に分かれた松として古来有名な歌枕の地です。
元禄2年5月4日 芭蕉たちは武隈の松に立ち寄り、岩沼で投宿しました
桜より 松は二木を 三月越し
翻訳:桜咲く弥生三月に江戸を出る時分から期待してやってきた、武隈の二本の松。その松を三ヶ月越しで、やっと見ることができた
この句の面白いのは、桜を旅の初めの1に見立てて、松の2本、今日は3ヶ月目で、1.2.3の数遊びをしている。
ただしよくよく考えると、3月27日の桜の時期に江戸を出て、詠んだのが5月4日なので、通算日数だけを勘定すると1ヶ月と7日しかたっていないのだけれども、「3月」「4月」「5月」と月ごとに無理やり数えて3ヶ月としている。
12:30 仙台 国分寺薬師
この近くに芭蕉たちは泊まっていたそうです。芭蕉が訪れたであろう国分寺薬師に私もお参りしました。
元禄2年5月5-7日 芭蕉たちは国分町の大崎庄左衛門宅に世話になっています。ここでは歌枕の地は訪れていないので、門人たちと句会でも開いていたのでしょう。
あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒
翻訳:紺色の鼻緒の草鞋をもらったが、この日かちょうど端午の節句にあたるので、端午の節句に飾る菖蒲にみたてて詠んだものといわれる。端午の節句の菖蒲の邪気ばらいのつもりでこの草履を履き、また旅に出発しよう。
おそらく芭蕉の足元がそれまでの雨道を歩んできて、みすぼらしかったので、大崎庄左衛門が新しい草履を進呈したのかもしれません。
13:30 多賀城跡
最近発掘調査されて多賀城跡がきれいに公園整備されています。日本武尊の足跡をたどる旅で何度かここを訪れていますが、かなり大規模なものです。
芭蕉が訪れたときは畑か山林、原野だったのではないかと思います。
多賀城は戦国武将の城跡か何かと勘違いしている人がほとんどですが、実際は9世紀初頭頃に、大和朝廷が蝦夷征伐の前線拠点として作った砦で、阿弖流為(アテルイ)たちと激闘した場所です。
多賀城=(ヤマト)タケル+家(け)=たげ=たが...と変じたものともいわれています。
したがつて、芭蕉が訪れたのはその800年後なので、砦の痕跡はほとんど埋もれていて、壺の碑で確かめるくらいしかできなかったと思います。
コメント(全24件)
が動き出して、周辺は工事車両ひっきりなし( ̄д ̄)
なんだかちょっとホコリっぽいですorz
このまま伊能忠敬を追いかけるんじゃないでしょうねΣ(・ω・ノ)ノ!
日本にはまだまだ僕が知らないような美味しいものが、たくさんあるんだと云うことが、よくわかりました。
今みたいに疲れたから電車で~・・・とはいかない時代だし旅も大変
だったのかな~??
m菓子の人の雨具って良くないだろうに・何故歩く・・・?絶対びしょびしょに?
この区間で詠まれた俳句も知らない物ばかりです。
自分の知識が乏しい事を思い知りました。
はらこ飯、美味いでしょうねー♪
さすがに盗んで売る人はいないでしょうけど、
○○がペンキ塗ったりケチャップをかけたりしないか心配です
蝦夷地はその時代からすると未知の世界だったんでしょうかね?
朝廷の支配が及んでいなかったのでわらかなかったということなんでしょうかね?(^^;
アスファルトなんか無いですもんね。
この世には食べた事ない美味しそうなものが沢山あります。
はらこめし....
おやきも食べた事ないし
3.4.5....昔、通信業界の繁盛期でさしごとかいってました。
最近では7.8.9の 3連単があったな競馬、興味ないですね(^^;