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チバアヒル(令和の馬笑)さん

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奥のカブ道を往く♪...(7)飯坂~白石~岩沼~国分(仙台)

走行距離
107km

10月14日 飯坂温泉を出て、前日立ち寄れなかった医王寺に朝一番で訪問しました。

 

元禄2年5月2日芭蕉たちは飯坂温泉に向かう途中、この医王寺に立ち寄って1句詠んでいます。寺の門柱には「医王密寺」となってます。

「笈も太刀も五月に飾れ紙幟(のぼり)」

翻訳:医王寺にあるとわれる弁慶の笈(おい/背負い)と義経の太刀を、端午の節句に飾る幟とともにそれらも飾るのがよい。端午の節句なのだから、武勇に聞こえたツワモノの遺品の笈と太刀ほど飾るに似合うものはない。

 

医王寺の脇には、芭蕉たちが飯坂温泉に向かう時通ったと言われる古道が、残っています。

まさか医王寺を訪れて1句詠んだ後に、向かった先の飯坂温泉でさんざんなボロ宿に泊まることとなるとはつゆも知らず、温泉三昧できると2人はルンルンしていたことでしょう。(笑)

宿でもらった買い物クーポンは、そこの県内で翌日までに使い切らないといけないルールですが、私の予定ではこのまま宮城県にすぐ入ってしまうので、クーポンが無駄になってしまいます。

スマホで近くで使えるお店を調べると、医王寺に一番近いのが「道の駅ふくしま」なので、ここで福島Bグルの「凍天」「塩ロール」を自宅に宅配しました。

帰宅する頃にはもう無いだろうなあ(^^;

10月14日 10:00白石城跡

 

元禄2年5月3日 芭蕉たちは飯坂の宿での雨を引き継ぐように翌日も雨の中を白石まで来て投宿しました。

このごとの五月雨に道いとやしく、身疲れ侍れば、よそながら眺めやりて過ぐるに、蓑輪、笠島も五月雨のをりに触れたりと、

「笠島は いづこ五月の ぬかり道」

翻訳:西行法師も訪れたという実方中将の墓のあるという笠島はどのあたりだろう。こんな五月雨ふりしきるぬかり道の中では、方向もはっきりわからない。

前日の宿いいい、今日の雨といい、もう疲れて散々だ、とでも言いたかったのでしょうか。(笑)

11:30 岩沼 武隈の松(たけくまのまつ)

「武隈の松」は、根元から二本に分かれた松として古来有名な歌枕の地です。

 

元禄2年5月4日 芭蕉たちは武隈の松に立ち寄り、岩沼で投宿しました

桜より 松は二木を 三月越し

翻訳:桜咲く弥生三月に江戸を出る時分から期待してやってきた、武隈の二本の松。その松を三ヶ月越しで、やっと見ることができた

この句の面白いのは、桜を旅の初めの1に見立てて、松の2本、今日は3ヶ月目で、1.2.3の数遊びをしている。

ただしよくよく考えると、3月27日の桜の時期に江戸を出て、詠んだのが5月4日なので、通算日数だけを勘定すると1ヶ月と7日しかたっていないのだけれども、「3月」「4月」「5月」と月ごとに無理やり数えて3ヶ月としている。

武隈の松を見た後、岩沼市内を走っていると「“はらこめし”有ります」の看板を見かけたので、思わず立ち寄りました。

街中の小さな定食屋さんで、聞けば“はらこめし”は、亘理町の知り合いから仕入れた“はらこめし”弁当とのとこ。

パッケージを見るとなんと亘理町で“はらこめし”の旨さでは老舗「荒浜」と雌雄を分けると言われる「安達魚店」のものではないですか♪

聞けばこのお店と親戚筋で特別に作ってもらって数量限定で売っているとのことでした。

迷わず即買いして、仙台に向かう途中の公園でいただきました。

この季節の宮城の味覚ですね♪まいう~~~♪

12:30 仙台 国分寺薬師

この近くに芭蕉たちは泊まっていたそうです。芭蕉が訪れたであろう国分寺薬師に私もお参りしました。

 

元禄2年5月5-7日 芭蕉たちは国分町の大崎庄左衛門宅に世話になっています。ここでは歌枕の地は訪れていないので、門人たちと句会でも開いていたのでしょう。

 

あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒

翻訳:紺色の鼻緒の草鞋をもらったが、この日かちょうど端午の節句にあたるので、端午の節句に飾る菖蒲にみたてて詠んだものといわれる。端午の節句の菖蒲の邪気ばらいのつもりでこの草履を履き、また旅に出発しよう。

おそらく芭蕉の足元がそれまでの雨道を歩んできて、みすぼらしかったので、大崎庄左衛門が新しい草履を進呈したのかもしれません。

13:30 多賀城跡

最近発掘調査されて多賀城跡がきれいに公園整備されています。日本武尊の足跡をたどる旅で何度かここを訪れていますが、かなり大規模なものです。

芭蕉が訪れたときは畑か山林、原野だったのではないかと思います。

 

多賀城は戦国武将の城跡か何かと勘違いしている人がほとんどですが、実際は9世紀初頭頃に、大和朝廷が蝦夷征伐の前線拠点として作った砦で、阿弖流為(アテルイ)たちと激闘した場所です。

多賀城=(ヤマト)タケル+家(け)=たげ=たが...と変じたものともいわれています。

したがつて、芭蕉が訪れたのはその800年後なので、砦の痕跡はほとんど埋もれていて、壺の碑で確かめるくらいしかできなかったと思います。

多賀城公園の隣に芭蕉が訪ねた「壺の碑」があります。

坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に、大きな石の表面に矢の矢尻で文字を書いたとされる石碑で、歌枕でもあるため、芭蕉が来たのです。

碑文には、平城京や当時の国々の境界からの距離や、多賀城の創建・修造などについて141文字で書かれているとのとこですが、私には読めませんでした(^^;

 

元禄2年5月8日 国分(仙台)から塩竃に向かう途中で芭蕉たちは訪れているようです。歌枕の地壺の碑を訪れて芭蕉は次のように涙したと記しています。ここでの発句はありません。

行脚の一徳、存命の喜び、羇旅の労を忘れて、涙も落つるばかりなり。

13:40 末の松山

ここも歌枕の地ですが、新興住宅地の中にあり場所がなかなか見つかりませんでした。今では寺の境内の中に数本の松と案内板があるだけです。

 

元禄2年5月8日 壺の碑から塩竃に向かう途中で芭蕉たちは訪れているようです。この頃は五月雨(梅雨)空もすこし回復してきたようで、次のように記されています。

五月雨の空いささか晴れて、夕月夜幽かに、籬が島もほど近し。

 

このあと、芭蕉たちのこの旅のハイライトである塩竃、松島を、私もまわります。乞うご期待(^o^)

コメント(全24件)

tellさん
多賀城はついにというか、前々から構想のあった当時の南門復元プロジェクト
が動き出して、周辺は工事車両ひっきりなし( ̄д ̄)
なんだかちょっとホコリっぽいですorz
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多賀城の南門工事は始まっていましたね。
いろいろな文献によると多賀城のあたりは今より海面が高いというか地盤が低くて海が際まで来ていて、松島のような浮島がつながっていて、多賀城は出島のような地形だったらしいです。
大和から海路で人員物資を運びこんで東北侵略拠点となっていたようです。(^^;
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うーむ
このまま伊能忠敬を追いかけるんじゃないでしょうねΣ(・ω・ノ)ノ!
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まだまだおくの細道は続きます(^o^) 伊能忠敬はその先の先?(笑)
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NINJA BAKAさん
またまた、今回も非常にアカデミックな見地からの解説!はらこめしなんて名前、初めて聞いたかも。
日本にはまだまだ僕が知らないような美味しいものが、たくさんあるんだと云うことが、よくわかりました。
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おくの細道をたどりながら芭蕉が見た景色で俳句を読み返すと、字ずらで言葉を追うのではなく、芭蕉が何を見てどう感じたか、時空を超えてその1/00、1/1000でも感じられたらうれしいです。それもツーリングの醍醐味です。♪
はらこ飯だけでなくて日本全国にはそこの気候風土に育まれた美味しいものがあふれています。(^^)
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芭蕉さんボロ宿の後に雨に打たれて散々だった時期?があったのね^^;
今みたいに疲れたから電車で~・・・とはいかない時代だし旅も大変
だったのかな~??
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昔の旅は命がけ...途中で病気にでもなったら病院も無いので野垂れ死にも覚悟の上なんでしょうね。(^^;
そこまでしても、歌枕の地を巡るというのは、一大冒険なので、冒険記として「おくの細道」を出版して残したくなるのもわかる気がします。
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シェフさん
ハラコ飯のイクラは、後乗せなんですね・・・そうしないと痛みますもんね?
m菓子の人の雨具って良くないだろうに・何故歩く・・・?絶対びしょびしょに?
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はらこ飯も全国いろいろあるようですが、仙台周辺のものは、鮭の身を醤油ベースのタレで煮こんで、その汁でご飯を炊いて、鮭の身とイクラはあと乗せしています。
江戸時代の町人の旅は、脚絆に草鞋履き、合羽は木綿か油紙だったので、雨が降ると大変だったでしょうね(^^;
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KAWIさん
シリーズも第7段、このまま完全走破しそう? いや走破しますね!
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おくの細道の行程の半分、この先新潟までは行きますのでお付き合いください(^^)
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ピロンさん
多賀城がそんなに古い時代のものとは知りませんでした。
この区間で詠まれた俳句も知らない物ばかりです。
自分の知識が乏しい事を思い知りました。
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多賀城は、大和朝廷の蝦夷征伐・東北征服の最前線基地だったので、かなり巨大な大和朝廷東北出張所であり軍事基地だったのでしょうね。アテルイなどの蝦夷にしてみたらいい迷惑なんでしょうけど。(^^;
芭蕉の句も、私も全てを知っていたわけではなく、このツーリング準備で学習しました。汗
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旅もいよいよ佳境ですねー♪
はらこ飯、美味いでしょうねー♪
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餃子は、たいしたことありませんでしたが、はらこ飯は抜群に美味いです。♪
この味は、仙台周辺で今のサケの遡上時期にしか食べられません。(*^^*)
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ゴリフさん
誠意大将軍の直筆が、こんな間近で見られるんですね
さすがに盗んで売る人はいないでしょうけど、
○○がペンキ塗ったりケチャップをかけたりしないか心配です
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壺の碑は、本当に浅くしか彫られていないので、拓本でも採らないと本当に読めません(^^; 矢じりで書いたのは本当なのではと思ってしまいます。ありえないですけどね(^^;A
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たかぴーさん
そう言えば歴史にも出てきますね〜坂上田村麻呂。
蝦夷地はその時代からすると未知の世界だったんでしょうかね?
朝廷の支配が及んでいなかったのでわらかなかったということなんでしょうかね?(^^;
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坂上田村麻呂は、800年頃の平安時代の公卿(偉いお役人)で武将ですね。
NHKの大型時代劇「火怨・北の英雄 アテルイ伝」の時代です。蝦夷が攻めてきたというより、大和朝廷が蝦夷を支配下に置こうとして戦っていた時代ですね。
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おっぺけさん
雨でも降れば、それは大変だったでしょうね。
アスファルトなんか無いですもんね。
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舗装も砂利敷も無い時代ですから、雨が降ったらそれはもう大変でしたでしょうね(+o+)
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ぷっちゃまんさん
まあ、旅はいいとして
この世には食べた事ない美味しそうなものが沢山あります。
はらこめし....
おやきも食べた事ないし
3.4.5....昔、通信業界の繁盛期でさしごとかいってました。
最近では7.8.9の 3連単があったな競馬、興味ないですね(^^;
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モタモタしていると、美味しいもの食べないうちにあの世に行ってしまいそうで、焦っています(^^;
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