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昭和のバイクたち/愛知・滋賀旅行 No.3


2日目の続き ヤマハで懐かしの名車にご対面(2023.01.17)

静岡県は磐田のヤマハコミュニケーションプラザにやって来ました。

それでは次に 歴代の名車が展示してある2階へ行ってみます。

目を引くのはYZR500(1986年)、スポットライトを浴び どこか誇らしげです。

打倒NSR・RGV-Γ、ヤマハが本気で作ったロードーレーサー、

V4エンジンを更に出力向上を図り、エディ・ローソンが2度目の世界チャンピオンに輝いたとか、

ヤマハのルーツ YA1 125cc 2スト 単気筒(1955年) 

当時、戦後の復興で2輪車は便利な移動手段、製造メーカーも150社を超えるほどだったという。

戦時中は軍用飛行機のプロペラを製造していたヤマハは、工作機械を利用して2輪車の製造に乗り出します。

そこでドイツのデーカーヴェー社のバイクを手本に、ヤマハ初の二輪車・ YA1を製造しました。

浅間火山レースに出場し見事優勝、技術者たちの念願が叶った瞬間です。

 

学卒の初任給が1万円の時代に YA1は138000円、それでも3年間で11000台販売という快挙を遂げました。

永きに渡り ライダーに愛されたSR400(1978年)

低圧縮のSR500を高圧縮のショートストロークエンジンにした400cc版、

免許制度の変更で、中免でも乗れるSRの誕生です。

1980年代、ツーリング仲間にSR500に乗る奴がいた。

エンジン始動は体重をかけキック、まるでエンジンとの戦いだ!

ドコドコと鼓動感がたまらない単車、男心が くすぐられます。

だが、環境問題(排ガス規制)によるものか? 多くのライダーに惜しまれつつ この世を去りました。

ロードスポーツ YDS1(1959年)空冷  2スト 2気筒 246cc

斬新なデザインと タコメーター内蔵のコンビネーションメーターは いかにもスポーティー、

また むき出しのエアクリーナーが 何んともワイルドな印象に、

ライバルは同時に発売されたホンダのスーパースポーツ CB72、2ストと4ストOHCとの戦いです。

第2回浅間火山レース(1957年)では 1~3位を独占、ヤマハの高い技術が称賛されました。

フラッグシップモデル YM1(1965年) 2スト2気筒 305cc

2ストは混合燃料を作って給油していたが、この頃から分離給油方式(ヤマハオートルーブ)が採用されました。

オイルタンクを装備し、給油はガソリンのみで楽になりました。

当時 自分が乗っていたのはスズキの250、法定速度は50km/hでした。

車と一緒に走っていると スビートー違反で捕まります。

このYM1は305なので、車と同じ60km/hで走れるので憧れのバイクでした。

高級スポーツモデル DS5E(1967年) 2スト2気筒 247cc

エンジンはアルミシリンダーに、そしてセル付きを採用し乗りやすくなりました。

高3のとき、仲間と伊豆へ卒業ツーリング、

自分はヤマハR1(350)、A君はヤマハDE5E(250)、B君はホンダドリーム450、

A君のDE5Eは私の憧れのバイク、一緒に走っていて楽しかった。

だが桜田門を過ぎ青山通り(246号線)を行くと、A君がバックミラーから消えている。

引き返したが見当たらない、信号で離ればなれになってしまったようだ。

仕方ないので、B君と二人で伊豆一周したちょっと残念なDS5Eでした。

これはヤマハ・スポーツモデルのマフラー、

当時 乗っていたバイクはスズキT20(250)、テールを細く絞った形状で気に入らない、

しかもエンジン音は空ふかしすると、シリンダーからギャンギャンと下品な音がして幻滅、

だが ヤマハはラッパ型で スパッとカットした形状がお気に入り、

そこでヤマハのR1(350)に乗り替えました。

排気音もいい、エンジン音も静かでいい、流石ヤマハ 高品質です。

ピュアスポーツ SDR(1987年) 水冷 2スト単気筒 195cc

スポーツライディング楽しむために開発したというライトウェイトマシン、

奇抜なデザインとレスポンスのいい2ストエンジン搭載など、ヤマハの戦略的製品です。

だが軽量化で一人乗り、しかも荷物も積めない、そしてタコメーターも無い、

ちょっとシンプル過ぎたのか? 多くのライダーには受け入れられず 短命に終わってしまった。

聞くところによると、軽快な走りが楽しめると熱烈なファンもいたという。

トレール DT1(1968年) 2スト 単気筒 247cc

「トレール」という新ジャンルを築いたモデル、

ブロックパターンのタイヤ、ロングストロークのサスペンション、エンジンガードも装備、本格的に戦えるマシンの登場です。

DT1はオフロードスポーツが盛んなアメリカで 絶大な人気を誇ったという。

その後、日本でもブームになり、各地にモトクロス場が造られました。

実家の近くでも大会があり 親戚の兄さんが出場、転んで泥だらけ でも立ち上がり果敢に挑戦していました。

GPレーサー RA97(1966年) 2スト2気筒 125cc

展示会場の一角にファクトリーマシンも展示していました。

案内板によると、デビュー戦はオランダGPでは 見事2位に入賞、

翌年は水冷エンジンを搭載し、マン島TTレースで悲願の優勝を果たします。

これはエンジニアたちの成果、大きな感動と自信を与えたという。

それでは 最近のバイクを幾つか紹介します。

つづく

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コメント(全12件)

NINJA BAKAさん
これは!ものすごくいいところに行かれましたね!
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杉さん
NINJA BAKAさん こんばんは
そうなんです、旅行で磐田に泊まり見学して来ましたよ。
青春を過ごした時期に造られたヤマハの名車が見られ感激しました。残るはカワサキ、WISとNINJA900を見に行けたらと思っています♪
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チバアヒル(令和の馬笑)さん
'70年代初頭まではどのメーカーも左キックのバイクが多かったですね。ウインカースイッチやライトスイッチの位置もメーカーごとにバラバラでした。
大型バイクの海外輸出が多くなった'70年代中盤から、キックは右に、ウインカースイッチやライトスイッチも各社ともほぼ共通な位置になった気がします。(^^)
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けんちゃんさん
今晩は、杉さん
YZR500、ケニーロバーツ、エディローソン、ウェインレイニー等をチャンピオンに導いてくれた、ヤマハGPマシーン、
その他にも往年の名車が、いいですね、目が釘付けになりますね
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おっぺけさん
こういう所は好きな人にはたまりませんよね。
私もまた行きたいです!
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杉さん
チバアヒルさん こんばんは
当時は単車と呼んでましたね、そんな単車はキックのイメージです。子供の頃 祖父の知人が陸王でやって来てデコンプレバーを引き豪快にキック、するとドコドコと凄い音が思い出されます。
補器類は確かメグロは逆でしたよね、これも個性の現れだったのでしようね。
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杉さん
けんちゃんさん こんばんは
そうなんですよね、世界のトップレーサーがヤマハのマシンで活躍したんですものね。
ここには歴代のバイクから新車まで展示されておりヤマハの意気込みが感じられますよ。
静岡は関東と四国の中間点、是非遊びにいらしてください。けんちゃんさんも感動すると思いますよ♪
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杉さん
おっぺけさん こんばんは
展示車両は定期的に入れ替えているようですが、おっぺけさんが行かれた時も名車が勢ぞろいしていたでしょうね。
若かりし日に乗っていたバイクも、今後欲しいバイクも見られ時間の経つのも忘れてしまいます。とっても有意義なときが過ごせ良かったですよ♪
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くれないの?デブっ!(ター坊改め。略称「くれデブ」)さん
DT1、SR(o^^o)
乗ってました。懐かしい。
SRは400から500と乗り継いで、あちこち走りました(o^^o)
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杉さん
くれデブさん こんばんは
やはりヤマハファンだったようですね。
SRは400と500で乗り味が大分違うでしょうね。当時自分も乗ってみたいと思っていたのですがチャンスがありませんでした。ピカピカに磨いて飾って置きたいですね♪
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ゴリフさん
SDRは1年ちょっとで生産中止になったとよくネタにされてますが、私が高校に入った90年当時の雑誌の国産車カタログにSDRも載ってたんですよね。
売れ残りで在庫販売だったのかもしれませんが、
当時は250の4気筒が人気で、我々のようなガキから見たらSDRは得体の知れない原チャリみたいな変なバイク、くらいにしか思いませんでした。
時代が変わると妙に味の出るバイク、車って結構ありますね。
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杉さん
ゴリフさん どうも
そのころ乗っていたのは美しいボディーのCB75F、それに比べSDRは骨っぽくてあまり魅力は感じられませんでした。でも今となるとこれも有りかな?って思えるようになりましたよ。
車ではクラウンMS60、世間ではクジラといわれ受け入れられませんでした。今思えば先進的なデザインだったんですけどね。あまり先走っては失敗してしまうようですね。
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