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杉さん
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コメント(全26件)
車とバイクと杉さんの歩みも良く見えました。キャブの音、室内に充満するガソリンの臭い、女性にはエアコンついてないの?ださいと言われても、窓を開けて走るスタイルは、誰がなんと言おうとも、意地で真夏も窓全開で走りました。
ソスタルジックカー・・イイです。
今は維持費が莫大にかかる為、プリウスで我慢。
最後のC13の写真はどこですか?
では、また。
お写真もステキです♪
昭和のイケメン!って感じ( ´艸`)
最近はMT車も数少ないですし、自動運転システムも出てきて。。
きっと杉さんが楽しんでおられた頃は車を運転する喜び、楽しさを感じられて、車好きな人達にはきっと良い時代だったんでしょうね。
FJクルーザーのカラーパッケージのサスもYAMAHA製みたいです。
結構、TOYOTAとYAMAHAは長い付き合いなんですね。
私も、TOYOTAのハイラックスピックアップに乗っていた頃、4駆だしタイヤはBFグッドリッジのATだなんて安心していたら坂道で下がってしまって縁石に擦って停めた苦い経験があります。(笑)
それ以来、BFグッドリッジとはおさらばして、スタッドレスを使ってます。
日本製ならATでまず大丈夫そうですが。(汗)
スカイラインは今見ても恰好いいですよね。
SUZUKIのアルトは、絶対箱スカラインを意識してると思うのですが。(笑)
ハコスカイイですね!
日産なら座間工場オススメですよ。
http://imp.webike.net/commu/diary/137073/?mode=pc
車からさっするにうちの父親と近いかもしれません。
私が生まれたころ父はギャランGTOに乗っていて、
その後セリカLB、マークII、バイオレット等々毎年のように乗り換えていました。
私が中学のころ既にハコスカはかなりのプレミアがついてましたが、
今の車は20年たっても大した値もつかず普通に走ってますし、
耐久性だけは進歩したなと思いますね。
Chapter2.の右端は角目の117クーペですね。
私は、丸目の117クーペが好きです。
トヨタ2000GTはトヨタ博物館で白を、ヤマハコミュニケーションプラザでゴールドを見てきました。組立はヤマハの工場でやってたみたいです。証拠写真撮りました。
サラリーマン太郎さんの日記にあるように、日産ヘリテージコレクションの倉庫に並べてあった歴代スカイラインGTRは圧巻でした。お宝クルマがザックザクです。
\(^o^)/
そうそう、若いころは車こそ最高の喜び、よくぞこの世に生まれけりと思っていました。
当時は、自動車メーカーこぞって性能競争です。ユーザーはカタログ数値に目がくぎ付けです。まず最高速度と馬力。装備は二の次です。
特に魅力的だったのはデザイン。各社個性的で、夜でもテールランプの形で車名が分かります。
スタイルはロングノーズ ショートデッキのスポーツカーに憧れ、第三京浜と名神高速クルージングが夢でした。
車は生き甲斐、仕事にも力が入ります。そんな青春時代でした。これからも、悔いの無い生き方をしたいものです。
私が生まれた所は小高い丘の上、どこへ行くにも坂があります。
中学は自転車通学ですが、帰りは長い上り坂を押して歩きます。すると、バイクや車があっという間に追い越して行きます。
動力のエンジンは凄い、労せず坂道を一気に登り切ります。これからは自動車の時代です。
そして就職は自動車会社です。当時、ファミリーカーブームで生産が追い付かないほどでした。企業は業務拡大で人手不足、私は面接だけで入社です。
好きな仕事をして、好きな車に乗って有頂天でした。NINJAさんがおっしゃる通り、今思えば一生懸命働いて一生懸命遊んだなと思っています。
あらっ、さとぺさんに褒めらた。嬉しいです、大変光栄にございます。
昭和のイケメンというほどでもないですが、現在は平成のカメン ライダーです。
当時は欧米に追い付け追い越せで、生活も豊かになってきました。夢であったマイカーでドライブも実現しました。
ところが時代は変わり、さとぺさんがおっしゃる通り自動運転へと切り替わるでしょうね。
安全が第一優先ですので、運転する喜びがなくなってしまうかも。でもバイクはまだまだ走る楽しさと所有する喜びが味わえそうですね。これからも走り続けますよ。
豊田佐吉もヤマハも同じ浜松のメーカー。家康さんは浜松に拠点を置いたとき、各地から職人を呼び寄せたらしいですね。
BFグッドリッチとは初めて聞きました。当時はまだタイヤの性能も高くはなかったのでしょうかね。
当時日産のL型直6 SOHC 2000ccは、トヨタのM型エンジンと比較して回転が伸びやかでヒュンヒュン回ります。
スタイリングもスマートで、サーフィンラインがアクセントになり機能美あふれる最高傑作の車です。
スズキも浜松のメーカーですが、ハコスカの人気が高かったので参考にしたのかも知れませんね。ハコスカは名車ですもの。
日産座間工場はコレクション豊富ですね。この中に私が憧れた車があります。フェアレディーZです。
私の知り合いが乗っていましてね、S20エンジンの腹に響くソレックスの吸気音は迫力満点でした。
L20のSUキャブ車でも、スポーツカーらしい走りでした。しかし、人気があり中古でも高値で売られていました。買えなくて残念!
浜松のスズキは見に行きましたが、日産の座間工場と磐田のヤマハへは是非行ってみたいと思っています。
座間工場のブログは、大変参考になりました。ありがとうございます。
ギャランはバランスシャフトを設けエンジン振動を減らす画期的なエンジンを作ったんですよね。4気筒でも6気筒並みの静かなエンジンでした。
ヒップアップスタイルのGTOの人気は高く売り上げ好調でしたね。姉妹車のFTOも好きでした。
セリカLBはレジャーブームと共に人気車になり、各社ハッチバック車が普及して来ましたね。
セリカのクーペモデルは、初代のST22型が気に入り乗っていました。1600のツーバレルツインキャブ仕様ながら結構走りが楽しめました。
確かに耐久性は格段に向上しましたね。エンジンもボディーも長持ち、だから新車が売れないのかも。
そうなんです、いすゞ117クーペです。フローリアンのクーペモデルでしたね。
デザインは、ジウジアーロが担当し流線型で欧州車のような車でした。これまでにないスタイルで人気の的でした。
トヨタ2000GTのシリンダーヘッド(DOHC)は、ヤマハ発動機。内装はヤマハ楽器が造りました。
当初は日産の工場で研究開発をしていたのかも しれません。トヨタと提携後は、開発チームをヤマハに移したらしいです。
トヨタ博物館も行ってみたいところです。それに日産のお宝クルマがバックザック?・・・盛り上げてくれますねぇ、もう行く気マンマンです。
追伸です。
Chapter13は、2008.10.04に撮したもので、福島県の沼沢湖と会津坂下ICの間です。
背後は只見川、ゆったりと流れる大河です。心安らぐこと間違いなし。
田子倉湖から沼沢湖はツーリングにお勧めのコースで紅葉シーズンが宜しいかと思います。
カッコいい、素敵すぎる!!
時代の良さを感じます。
ほんと感動しました。
ありがとうございました。
過分な評価をいただきありがとうございます。最近褒められることがないので、ほんとうれしです。
当時は、携帯もパソコンも無く遊ぶものはあまりありませんでした。
少ししてから、インベーダーゲームが流行り喫茶店へはよく通いました。
そのころようやくボーリング場が出来まして大ブームになりました。皆さんマイボールを自慢していました。
パチンコは手打ちでチューリップ式でした。ひと玉ひと玉穴をめがけてレバーで弾きます。景品は主にチョコレートです。
それにバイクと車に夢中でした。アクセルをひねるだけで走るとは夢の乗り物でした。もうバイクと車のとりこです。
就職して給料をもらうと、ほとんど車の費用に消えてしまいました。でも当時は、喜びと感動で青春していました。全く悔いはありません。
今は、子供も巣立ち妻と二人暮らしですが、好きなバイクで温泉巡りを楽しんでいます。
生まれてからこれといった苦労も無く、最高の人生を過ごせた思っています。この世に道がある限りバイクで走り続けます。
これまた懐かしい車がいっぱいですね。
やんちゃな杉さんの一面が見れて楽しかったですね。
何故か若い頃の無茶って何とかなったり、偶然大したことなかったりしますよね。
おっしゃる通りですね。誰にでもあるのでしょうかね、若気の至りでほんと世の中なめていました。
遠い昔のある日、会社の仲間と二人で呑みに行きました。そして夜の10時「明日は日曜日なので日光へ遊びに行こう」ということになりました。当時は飲酒運転はOKでした。
そして夜の東北高速をスカGで走ります。すると前方の走行車線に10台ほどだんご状態で走っています。
追い越し車線はガラガラ。当然一気に抜き去ります。すると、だんご状態の中から1台抜け出し猛然と追いかけて来ます。サバンナかな?競争するつもりらしい。
そこで私はアクセル開け引き離します。そして宇都宮IC近くでスピードダウン。
するとようやく奴が追いついて来ます。先へ行かせてやろうと思っていたら、急にパトライトが点滅。警ら隊だ!
彼曰く「今日は仕事けー? だーめだよー いい車に乗ってるからって そーんなに飛ばしちゃー ここはレース場じゃーねーんだからよー」栃木弁でおっしゃっておられました。後日、上納金を納めました。
また、高校のときは、バイクに仲間を乗せコーナリング中、後席の彼が体を起こした為、曲がり切れず電柱に激突。
メーターのガラスが割れ手から出血。そこにお店があり、おばちゃんが赤チンで応急処置してくれました。あのおばちゃん生きているかなぁ?
ほんと無茶ばかりしていました。
でも、今は法令順守で優良運転手です。私も少しは成長しました。
回答ありがとうございます、
今回のツーリングコースだと、魚沼のおにぎり食べてから、沼沢湖目指してみます、そこから、西方街道、会津街道、会津通りで北上ですね。くねくねコースです。では、また。
結構今で言うとイケイケだったんですね(笑
(イケイケも死語かな?)
私の初車ダルマもエンジンにYAMAHAと刻印があり
何でYAMAHA?と当時思ってました。
万座ハイウェイもダートだったんですね。
私は杉さんより下ですが、ベレGやGC10、510ブル等
普通に走ってた頃です。
ガソリンも有鉛/無鉛がありました。
ちょうどS51排ガス規制でことごとく魅力ある車が
やむなしに馬力ダウンしたのを覚えてます。
そんな中ホンダはCVCCを出して画期的だと称賛されてました。
生家の真ん前にホンダ工場があったので
見る車は当然ながらホンダばかり。
N360、1200クーペ、バイクはCB550Fやら
750F、DAXばかりだった覚えが。
当時のホンダ社員の髪型と杉さんが似てて
少し笑ってしまいました。スミマセン。
私も65歳になりますが、当時は ほんといい時代でした。高度成長期で、企業も私も「イケイケドンドン」です。
当然、仕事も遊びも一生懸命でしたね。やればやるだけ、見返りがありましたから。
若いころは、趣味のアイレスカメラに白黒フィルムを入れ畑のスイカを撮ったり、オーディオコンポを大音量で鳴らしたりしていました。
パチンコは、間寛平さんが歌っていた「ひらけ!チューリップ」のように、チューリップをめがけ一球一球手打ち。手に汗していました。
バイクは毎日夜中までカスタムしたり磨いたりでオトキチです
日曜日は毎週房州へ走りに行きます。当時、追い越し禁止はなく車をゴボウ抜き。カミナリ族みたいに走っていました(44年前)
車も大好きで、ハコスカにダットサンフェアレディーSRの直管マフラーを付けて、東北へ九州へと走りまわっていました(49年前のこと)
そのころ、カーステレオが出来ました。8トラックテープのカートリッジ式で曲は歌謡曲ばかりでした。
ナビなぞは無く地図とにらめっこ。しばらく走り道を間違えたことに気付くと、ロスを取り返そうと一目散に戻ります。
当時は速度取り締まりはしていませんでした。飲酒運転もOK、おまわりさんに気を付けて帰んなと言われます。
おっしゃる通り、排ガス規制でパワーダウンはとても残念に思いました。パワー大好き人間でしたから。
トヨタもホンダのCVCCと同じような希薄燃焼エンジンを開発しましたが、これがまたレスポンスが悪く乗る気がしません。
まだ、触媒方式のほうがマシでした。
でも、一定距離走行すると、触媒の中身(粒上のペレット)を交換しなければなりませんでした。私たちには商売になりましたけど。
既販車には苦肉の策で、点火時期を遅らせる装置をディスビーのバキュームアドパンサーのホースに割り込ませたりして、軒並みパワーダウンです。
もう、この世の終わりだ! と思いましたね。 とにかく、仕事も遊びも車もバイクにも命を懸けていましたら。給料はほとんど注ぎ込みました。
ガソリンも、有害物質が含まれる有鉛から無鉛に切り替えましたね。でも鉛がないとバルブシートが摩耗してしてしまい、頻繁にタペット調整が必要になります。
そこで、無鉛でも摩耗しないバルブシートの開発にも苦労があったようでした。
でも、昭和は私にとって輝いていました。全力で遊び、夢と希望にあふれていましたから。
ハコスカはやっぱりカッコイイですね。今でも憧れの車です(*^-^*)でも手に入れるのは無理なので小さいラジコン(国光仕様)で我慢します(^-^;
トヨタ2000GTは小学生の頃一度だけ間近で見たことがあります。岩手の田舎なのに、フツーに家の前に駐車してあったんですよね。当時「サーキットの狼」に夢中だったので興奮してしばらく見とれていたのを覚えています(*^-^*)
それにしても、杉さんとコロナの写真カッコ良すぎ!コロナのカタログ写真かと思いました(^o^)
あらあら、コロナの写真褒められた!とっても嬉しいです。
この車(RT40)は昭和44年式で、昭和45年に友人から譲ってもらいました。
3速コラムシフトのマニュアルミッション車で、フロントドアには三角窓があります。
それまではベンチシートが主流でしたが、この車からセパレートタイプのリクライニングシートが採用されました。
シートを倒して、車内で寛ぐことが出来ます。ヘッドレストはありませんでした。
タイヤはバイアスタイヤです。
スポーティー車は、ロープロファイルタイヤ(扁平タイヤ)でした。いわば、バイアスタイヤの扁平率を70%から60%以下にしたものです。
ハコスカも、ロープロファイルでした。サイズは6.45-14だったかな?細いタイヤです。
その後、ラジアルタイヤが開発され、いよいよスポーツ走行が可能になりました。
おっしゃる通り、今見てもはハコスカはかっこいいですね。私は最高傑作車だと思っています。
国光仕様ってのがあるんですね。これは知りませんでした。
当時、日産のレーシングドライバーは、高橋国光さんや北野元さんなどトップレーサーがいましたね。
プリンスは長谷見正弘さん、理論派ドライバーでスカGで常勝です。
そのころはアクセル全開。スピードに酔いしれていました。これぞ若気の至り。
現在は65歳になり、安全運転を励行。バイクも車も飛ばさない快感を楽しんでいます。
すると見えないものが見えてきます。
乗り物と青年!ロマンを感じます!
こういうお話を見ると、
最近の若者の車離れが切ないです。。。
こんなふうな素敵な思い出ができるのに、ゲームにスマホじゃ、なんか切ないです。。。
「書(スマホ)を捨て、街に出よ!」
なんて言いたくなります(笑)
世間知らずの田舎者でした(笑)
明日の心配もしない呑気な青春時代を過ごせたことに感謝です。
呑んでバイクで車で遊びまくりのアホな私ですが、思い残すことはなく今は妻と二人でのんびり暮らしています。趣味は引き続きバイク、まだまだ知らない街を見てまわりたいです。いずれtaizoさんとも!