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初めてのやまなみハイウェイ、若き日の悲惨な思い出

ツーリング期間
2009年12月30日 ~ 2010年01月02日
走行距離
2152km

先日、「オートモービル カウンシル」を幕張メッセへ見に行きました。

自動車の伝統文化の魅力を世界に発信するイベントです。
スカイラインGT-Rなどの名車や、最新の車も勢ぞろい。 目を見張るばかりでした。

ハコスカを見ると、若き日のころを思い出します。
その昔、16才のとき(49年前) 自動二輪免許を取得しました。
スズキからヤマハへとバイクを乗り継ぎ、通学やツーリングでバイクライフを楽しんでいました。

そして18才になり四輪免許を取りました。
すると、雨でも風でも何んの苦も無く移動出来る車に魅了されてしまいました。

就職後は、バイクを売却し車オンリーの生活に変わります。
因みに、バイクは12年のブランク後、友人に誘われCB750-Fでリターンしましたが。

当時は、カローラとサニーが熾烈な販売競争の真っ只中。
ファミリーカーブームで、 マイカーを手に入れようと日本中、沸き立っていました。
バブル景気で、どの企業も著しい発展を遂げます。

シェアは、日産3割 トヨタ3割で互角の戦いです。
市場の半数以上をこの2社で占め、しかも相次ぐ新車攻勢で業績好調です。

そんな当時、憧れの車は いすゞ ベレット1600GT、2ドアクーペです。
愛称は「ベレG」
日本で初めてGT(グランツーリスモ)を名乗ったモデルです。
スタイル デザイン 計器もスポーツカーそのもの。 とにかくカッコいい。

「ベレG伝説」も生まれました。
「ベレGに乗らなければ、女にもてない」、もてる男はこぞってベレGです。
すっかり車に魅了されてしまいました。

また1970年(46年前)には、トヨタ販売店の新車展示会に「川合稔」がやって来ました。
トヨタワークスのレーシングドライバーです。 生沢徹、鮒子田寛と共に人気のカーレーサーです。

彼はその年、「Oh!モーレツ」の丸善石油のCMで有名な小川ローザと結婚。
だが半年後、鈴鹿サーキットで 「トヨタ7ターボ」のテスト走行中、ヘアピンカーブでコースアウト。
レーシングカーから投げ出され、帰らぬ人となってしまった。
今でも忘れられない悲しい出来事でした。

また1970年(昭和45年)は、トヨタ2000GTが生産終了の年でもあります。

元々 トヨタ2000Gは、ヤマハが日産と提携して 開発及び試作車を作りました。
後に、日産に提携を解除されてしまいました。
莫大な開発費用を要すため、資金面の問題からか?

ヤマハはトヨタに提携を交渉。
トヨタが了承し、パートナーとなり完成させました。
なかには、ヤマハ2000GTだ 日産2000GTだ と言う人もおります。

車両価格は238万、学卒初任給は2.6万。 実に8年分だ、マンションが買える。

当時は中古のコロナ(RT40型)を購入しました。1969年(昭和44年)式です。
エンジンは2R型 OHV 1500cc 2バレルシングルキャブ 3速コラムシフトM/T車です。

富士スバルラインでは、気圧の影響を受けキャブが吹けない。
ローギア走行で、アクセル全開です。
そして5合目へは、やっと到着するありさまでした。

また70年代は、先進技術が投入され魅力的な車が続々発表されました。
次には、コロナセダン(RT84)をローンで購入。
初めての新車、誇らしげに乗りまわしていました。

その頃からバワステが普及。 片手でハンドルが切れるとは画期的なことでした。
また、8トラックカーステレオも普及。
人気の歌手は野路由起子さん。 彼女の曲を友に、夜の国道をどこまでも走りました。

(写真は昭和46年、コロナRT40で群馬県万座温泉ドライブの一枚。現在の万座ハイウェイです)

その後、憧れは走りの日産フェアレディZとスカイライン2000GTです。
Zは中古でも高く買えない。
すると、スカイラインがモデルチェンジでケンメリに。
ハコスカ(愛のスカイライン)が、旧型在庫処分で安く買えるはずだ!

72年(44年前)、プリンス店へ駆け込み購入の契約。
シルバーメタリックの2000GTX(GC10-TKR5)、SUツインキャブの4ドアセダンです。
当時はエンジンが良く回り加速も良く、エンジン音もお気に入りです。

やっと手に入れた念願の車。 宝物のように毎日磨いていました。
ポルシェタイプのマニュアルトランスミッションは、「スコッ スコッ」と独特なシフトフィーリングです。
トヨタにはない画期的な感覚、さすが日産。 メーターもジェット機のコクピットさながらです。
スカイラインから、かつてない わくわく感をもらいました。

(写真は昭和48年、ディーラーのサービス工場前にて)

1972年(44年前)の冬休みのことです。
九州熊本の阿蘇やまなみハイウェイは、雄大な阿蘇を望む山岳ロードらしい。
是非、行ってみたい。
そこで年末、仕事を終え 一人で九州へ向け出発しました(1972.12.30)

夜の瀬戸内をひたすら走り、広島で夜明けです。
睡魔に襲われ、車の中で仮眠。

そして夕方、下関に着き旅館に素泊まり。
料金は1500円、4畳半で裸電球が1個の古い部屋だった。
風呂への廊下も暗く、お化け屋敷のような旅館でした。

翌日、山口県の下関から「関門トンネル」を抜け、九州福岡県に上陸です。
そこは福岡県の門司。意外に大きな街で驚きました。

そして大分の別府は、至るところから湯気が立ち昇っている。
これは凄い日本一だ。 初めて見る光景にびっくりです。

熊本県に入り、いよいよ阿蘇山です。 気分も高まります。
スカイライン2000GTで走るやまなみハイウェイ、う~ん感無量です。
ワインディングを軽快に走り駐車場に到着。

ところが雪で真っ白、ビックリです。 南国九州なのに雪が降るとは思ってもいませんでした。
そして先へと進むと、見渡す限りの草原が広がっています。 雄大な景色に感動です。

そして、佐賀県経由で福岡県の博多に到着。有名な博多人形の店もありました。
ビルが建ち並び、路面電車も走っている。 想像以上に都会的な雰囲気で驚きました。

道路脇に車を止め、地図で道路を確認。
すると、通りかかった人に、道を尋ねられました。
「駅へ行く道は、とちらでしょうか?」
「私も道に迷い地図で調べているところなんですよ」と答えると、お辞儀をして立ち去りました。
博多は、路面電車も走る大都会、田舎者は迷います。

往路は瀬戸内だったので、復路は日本海側を行くことにしました。

山口県の下関から萩へ。 そして島根県に入り「出雲大社」で初詣。
長い参道と、大きなしめ縄が印象的です。

鳥取県から京都府に入り、丹波の山越えです。
日も暮れ、辺りは街灯もなく真っ暗です。
山道を走っていると、チラチラ雪が降って来ました。
ヘッドランプに照らされた雪が、どこかロマンチック。

走るにつれ路面が白くなってきました。いよいよ、峠に近づいたようです。
滑るようならスピードを落とそう。 そこで、軽くブレーキペダルを踏んで滑り具合をチェック。
ところが大変、車体が傾いたままコントロール不能だ!

あっという間に、道路を横切り田んぼの用水路に墜落。 路面が凍結していた!
あ~あ、どうしよう? 時刻は夜10時、夜中です。 雪が深々と降っている。

辺りを見ると、暗闇の中に こうこうと輝く建物が。 スタンドだ! 開いている、助かったぁ!
凍える寒さの中、スタンドを目指し歩きます。

事情を話すと、「知り合いが重機を持ってるから、頼んで上げますよ」と言う。
こんなに親切にしてくれるとは感激です。 人の情けを感じた次第です。

夜中なのに、間もなくクレーン車で来てくれた。
ドアの窓に丸太を通し、ワイヤーをかけ吊り上げます。

何とボディーに傷が無い。 エンジンも異常無し、良かった。
手持ちの心ばかりのお金を払い、お礼を言いました。

ただ、走るとハンドルの位置が狂っている。
翌朝、京都市内のプリンス店で整備検査ラインを拝借。
ステアリングリンクが少し歪んでいるからかな? タイロッドエンドでトーイン調整、これでOK。

そして、京都-大阪-名古屋-東京と高速を走り無事帰宅。
四日間の九州ドライブでした。

初めての九州の旅は、喜びとアクシデント、それに感謝の心がいっぱい詰まった感動の旅となりました。

おわりに
若かりし頃は、給料の大半は車代と呑み代で消えてしまいました。

でも心配いりません。 バブル絶頂期、給料は毎年ぐんぐんUP、ボーナスは年4回も出ます。
一日の大半は車と一緒、車に没頭する毎日です。
まさに、青春真っ只中でした。

(写真は、35年前の伊豆河津七滝です)

因みに、現在のスペイドは15台目、バイクは6台目。
親からは、カーキチ オトキチと言われていました。 確かに違いない。

現在は、退職して3年目、バイク中心の生活です。
天気のいい日には、気の向くままバイク旅を楽しんでいます。

バイクは、喜びを与えてくれる素晴らしい乗り物。 人生最良の友です。

コメント(全26件)

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Maxさん
杉さん、こんばんは
車とバイクと杉さんの歩みも良く見えました。キャブの音、室内に充満するガソリンの臭い、女性にはエアコンついてないの?ださいと言われても、窓を開けて走るスタイルは、誰がなんと言おうとも、意地で真夏も窓全開で走りました。
ソスタルジックカー・・イイです。
今は維持費が莫大にかかる為、プリウスで我慢。
最後のC13の写真はどこですか?
では、また。
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NINJA BAKAさん
杉さん、いい歴史をお持ちですね。多少無謀かなぁと思うことでもやった方が断然いいに決まっています。年をとった時にうれしくなりますから。
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さとぺさん
車に夢中の若かりし日の杉さん。
お写真もステキです♪
昭和のイケメン!って感じ( ´艸`)
最近はMT車も数少ないですし、自動運転システムも出てきて。。
きっと杉さんが楽しんでおられた頃は車を運転する喜び、楽しさを感じられて、車好きな人達にはきっと良い時代だったんでしょうね。
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キム(first penguin) ヨガの眠り中さん
杉さん、どうも!
FJクルーザーのカラーパッケージのサスもYAMAHA製みたいです。
結構、TOYOTAとYAMAHAは長い付き合いなんですね。
私も、TOYOTAのハイラックスピックアップに乗っていた頃、4駆だしタイヤはBFグッドリッジのATだなんて安心していたら坂道で下がってしまって縁石に擦って停めた苦い経験があります。(笑)
それ以来、BFグッドリッジとはおさらばして、スタッドレスを使ってます。
日本製ならATでまず大丈夫そうですが。(汗)
スカイラインは今見ても恰好いいですよね。
SUZUKIのアルトは、絶対箱スカラインを意識してると思うのですが。(笑)
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サラリーマン太郎さん
杉さんこんばんは!
ハコスカイイですね!
日産なら座間工場オススメですよ。
http://imp.webike.net/commu/diary/137073/?mode=pc
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ゴリフさん
杉さんこんばんは。
車からさっするにうちの父親と近いかもしれません。
私が生まれたころ父はギャランGTOに乗っていて、
その後セリカLB、マークII、バイオレット等々毎年のように乗り換えていました。

私が中学のころ既にハコスカはかなりのプレミアがついてましたが、
今の車は20年たっても大した値もつかず普通に走ってますし、
耐久性だけは進歩したなと思いますね。
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テツワンさん
杉さん こんばんは!
Chapter2.の右端は角目の117クーペですね。
私は、丸目の117クーペが好きです。
トヨタ2000GTはトヨタ博物館で白を、ヤマハコミュニケーションプラザでゴールドを見てきました。組立はヤマハの工場でやってたみたいです。証拠写真撮りました。
サラリーマン太郎さんの日記にあるように、日産ヘリテージコレクションの倉庫に並べてあった歴代スカイラインGTRは圧巻でした。お宝クルマがザックザクです。
\(^o^)/
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杉さん
Maxさん こんばんは
そうそう、若いころは車こそ最高の喜び、よくぞこの世に生まれけりと思っていました。
当時は、自動車メーカーこぞって性能競争です。ユーザーはカタログ数値に目がくぎ付けです。まず最高速度と馬力。装備は二の次です。
特に魅力的だったのはデザイン。各社個性的で、夜でもテールランプの形で車名が分かります。
スタイルはロングノーズ ショートデッキのスポーツカーに憧れ、第三京浜と名神高速クルージングが夢でした。
車は生き甲斐、仕事にも力が入ります。そんな青春時代でした。これからも、悔いの無い生き方をしたいものです。
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杉さん
NINJA BAKAさん こんばんは
私が生まれた所は小高い丘の上、どこへ行くにも坂があります。
中学は自転車通学ですが、帰りは長い上り坂を押して歩きます。すると、バイクや車があっという間に追い越して行きます。
動力のエンジンは凄い、労せず坂道を一気に登り切ります。これからは自動車の時代です。
そして就職は自動車会社です。当時、ファミリーカーブームで生産が追い付かないほどでした。企業は業務拡大で人手不足、私は面接だけで入社です。
好きな仕事をして、好きな車に乗って有頂天でした。NINJAさんがおっしゃる通り、今思えば一生懸命働いて一生懸命遊んだなと思っています。
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杉さん
さとぺさん こんばんは
あらっ、さとぺさんに褒めらた。嬉しいです、大変光栄にございます。
昭和のイケメンというほどでもないですが、現在は平成のカメン ライダーです。
当時は欧米に追い付け追い越せで、生活も豊かになってきました。夢であったマイカーでドライブも実現しました。
ところが時代は変わり、さとぺさんがおっしゃる通り自動運転へと切り替わるでしょうね。
安全が第一優先ですので、運転する喜びがなくなってしまうかも。でもバイクはまだまだ走る楽しさと所有する喜びが味わえそうですね。これからも走り続けますよ。
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杉さん
キムさん こんばんは
豊田佐吉もヤマハも同じ浜松のメーカー。家康さんは浜松に拠点を置いたとき、各地から職人を呼び寄せたらしいですね。
BFグッドリッチとは初めて聞きました。当時はまだタイヤの性能も高くはなかったのでしょうかね。
当時日産のL型直6 SOHC 2000ccは、トヨタのM型エンジンと比較して回転が伸びやかでヒュンヒュン回ります。
スタイリングもスマートで、サーフィンラインがアクセントになり機能美あふれる最高傑作の車です。
スズキも浜松のメーカーですが、ハコスカの人気が高かったので参考にしたのかも知れませんね。ハコスカは名車ですもの。
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杉さん
サラリーマン太郎さん こんばんは
日産座間工場はコレクション豊富ですね。この中に私が憧れた車があります。フェアレディーZです。
私の知り合いが乗っていましてね、S20エンジンの腹に響くソレックスの吸気音は迫力満点でした。
L20のSUキャブ車でも、スポーツカーらしい走りでした。しかし、人気があり中古でも高値で売られていました。買えなくて残念!
浜松のスズキは見に行きましたが、日産の座間工場と磐田のヤマハへは是非行ってみたいと思っています。
座間工場のブログは、大変参考になりました。ありがとうございます。
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杉さん
ゴリフさん こんばんは
ギャランはバランスシャフトを設けエンジン振動を減らす画期的なエンジンを作ったんですよね。4気筒でも6気筒並みの静かなエンジンでした。
ヒップアップスタイルのGTOの人気は高く売り上げ好調でしたね。姉妹車のFTOも好きでした。
セリカLBはレジャーブームと共に人気車になり、各社ハッチバック車が普及して来ましたね。
セリカのクーペモデルは、初代のST22型が気に入り乗っていました。1600のツーバレルツインキャブ仕様ながら結構走りが楽しめました。
確かに耐久性は格段に向上しましたね。エンジンもボディーも長持ち、だから新車が売れないのかも。
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杉さん
テツワンさん こんばんは
そうなんです、いすゞ117クーペです。フローリアンのクーペモデルでしたね。
デザインは、ジウジアーロが担当し流線型で欧州車のような車でした。これまでにないスタイルで人気の的でした。
トヨタ2000GTのシリンダーヘッド(DOHC)は、ヤマハ発動機。内装はヤマハ楽器が造りました。
当初は日産の工場で研究開発をしていたのかも しれません。トヨタと提携後は、開発チームをヤマハに移したらしいです。
トヨタ博物館も行ってみたいところです。それに日産のお宝クルマがバックザック?・・・盛り上げてくれますねぇ、もう行く気マンマンです。
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杉さん
Maxさん どうも
追伸です。
Chapter13は、2008.10.04に撮したもので、福島県の沼沢湖と会津坂下ICの間です。
背後は只見川、ゆったりと流れる大河です。心安らぐこと間違いなし。
田子倉湖から沼沢湖はツーリングにお勧めのコースで紅葉シーズンが宜しいかと思います。
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たいゾーさん
杉さん、こんばんは。

カッコいい、素敵すぎる!!
時代の良さを感じます。

ほんと感動しました。

ありがとうございました。
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杉さん
たいゾーさん こんばんは
過分な評価をいただきありがとうございます。最近褒められることがないので、ほんとうれしです。
当時は、携帯もパソコンも無く遊ぶものはあまりありませんでした。
少ししてから、インベーダーゲームが流行り喫茶店へはよく通いました。
そのころようやくボーリング場が出来まして大ブームになりました。皆さんマイボールを自慢していました。
パチンコは手打ちでチューリップ式でした。ひと玉ひと玉穴をめがけてレバーで弾きます。景品は主にチョコレートです。

それにバイクと車に夢中でした。アクセルをひねるだけで走るとは夢の乗り物でした。もうバイクと車のとりこです。
就職して給料をもらうと、ほとんど車の費用に消えてしまいました。でも当時は、喜びと感動で青春していました。全く悔いはありません。
今は、子供も巣立ち妻と二人暮らしですが、好きなバイクで温泉巡りを楽しんでいます。
生まれてからこれといった苦労も無く、最高の人生を過ごせた思っています。この世に道がある限りバイクで走り続けます。
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V-Striderさん
こんばんは~!( ^o^)ノ
これまた懐かしい車がいっぱいですね。
やんちゃな杉さんの一面が見れて楽しかったですね。
何故か若い頃の無茶って何とかなったり、偶然大したことなかったりしますよね。
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杉さん
ストライダーさん こんばんは
おっしゃる通りですね。誰にでもあるのでしょうかね、若気の至りでほんと世の中なめていました。

遠い昔のある日、会社の仲間と二人で呑みに行きました。そして夜の10時「明日は日曜日なので日光へ遊びに行こう」ということになりました。当時は飲酒運転はOKでした。
そして夜の東北高速をスカGで走ります。すると前方の走行車線に10台ほどだんご状態で走っています。
追い越し車線はガラガラ。当然一気に抜き去ります。すると、だんご状態の中から1台抜け出し猛然と追いかけて来ます。サバンナかな?競争するつもりらしい。
そこで私はアクセル開け引き離します。そして宇都宮IC近くでスピードダウン。
するとようやく奴が追いついて来ます。先へ行かせてやろうと思っていたら、急にパトライトが点滅。警ら隊だ!

彼曰く「今日は仕事けー? だーめだよー いい車に乗ってるからって そーんなに飛ばしちゃー ここはレース場じゃーねーんだからよー」栃木弁でおっしゃっておられました。後日、上納金を納めました。

また、高校のときは、バイクに仲間を乗せコーナリング中、後席の彼が体を起こした為、曲がり切れず電柱に激突。
メーターのガラスが割れ手から出血。そこにお店があり、おばちゃんが赤チンで応急処置してくれました。あのおばちゃん生きているかなぁ?

ほんと無茶ばかりしていました。
でも、今は法令順守で優良運転手です。私も少しは成長しました。
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Maxさん
杉さん、こんばんは

回答ありがとうございます、
今回のツーリングコースだと、魚沼のおにぎり食べてから、沼沢湖目指してみます、そこから、西方街道、会津街道、会津通りで北上ですね。くねくねコースです。では、また。
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ジッポーさん
杉さん こんにちは
結構今で言うとイケイケだったんですね(笑
(イケイケも死語かな?)
私の初車ダルマもエンジンにYAMAHAと刻印があり
何でYAMAHA?と当時思ってました。
万座ハイウェイもダートだったんですね。
私は杉さんより下ですが、ベレGやGC10、510ブル等
普通に走ってた頃です。
ガソリンも有鉛/無鉛がありました。
ちょうどS51排ガス規制でことごとく魅力ある車が
やむなしに馬力ダウンしたのを覚えてます。
そんな中ホンダはCVCCを出して画期的だと称賛されてました。
生家の真ん前にホンダ工場があったので
見る車は当然ながらホンダばかり。
N360、1200クーペ、バイクはCB550Fやら
750F、DAXばかりだった覚えが。
当時のホンダ社員の髪型と杉さんが似てて
少し笑ってしまいました。スミマセン。
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杉さん
ジッポーさん こんにちは
私も65歳になりますが、当時は ほんといい時代でした。高度成長期で、企業も私も「イケイケドンドン」です。
当然、仕事も遊びも一生懸命でしたね。やればやるだけ、見返りがありましたから。

若いころは、趣味のアイレスカメラに白黒フィルムを入れ畑のスイカを撮ったり、オーディオコンポを大音量で鳴らしたりしていました。
パチンコは、間寛平さんが歌っていた「ひらけ!チューリップ」のように、チューリップをめがけ一球一球手打ち。手に汗していました。

バイクは毎日夜中までカスタムしたり磨いたりでオトキチです
日曜日は毎週房州へ走りに行きます。当時、追い越し禁止はなく車をゴボウ抜き。カミナリ族みたいに走っていました(44年前)

車も大好きで、ハコスカにダットサンフェアレディーSRの直管マフラーを付けて、東北へ九州へと走りまわっていました(49年前のこと)
そのころ、カーステレオが出来ました。8トラックテープのカートリッジ式で曲は歌謡曲ばかりでした。

ナビなぞは無く地図とにらめっこ。しばらく走り道を間違えたことに気付くと、ロスを取り返そうと一目散に戻ります。
当時は速度取り締まりはしていませんでした。飲酒運転もOK、おまわりさんに気を付けて帰んなと言われます。

おっしゃる通り、排ガス規制でパワーダウンはとても残念に思いました。パワー大好き人間でしたから。
トヨタもホンダのCVCCと同じような希薄燃焼エンジンを開発しましたが、これがまたレスポンスが悪く乗る気がしません。

まだ、触媒方式のほうがマシでした。
でも、一定距離走行すると、触媒の中身(粒上のペレット)を交換しなければなりませんでした。私たちには商売になりましたけど。

既販車には苦肉の策で、点火時期を遅らせる装置をディスビーのバキュームアドパンサーのホースに割り込ませたりして、軒並みパワーダウンです。

もう、この世の終わりだ! と思いましたね。 とにかく、仕事も遊びも車もバイクにも命を懸けていましたら。給料はほとんど注ぎ込みました。

ガソリンも、有害物質が含まれる有鉛から無鉛に切り替えましたね。でも鉛がないとバルブシートが摩耗してしてしまい、頻繁にタペット調整が必要になります。
そこで、無鉛でも摩耗しないバルブシートの開発にも苦労があったようでした。

でも、昭和は私にとって輝いていました。全力で遊び、夢と希望にあふれていましたから。
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上さん
杉さんこんばんは
ハコスカはやっぱりカッコイイですね。今でも憧れの車です(*^-^*)でも手に入れるのは無理なので小さいラジコン(国光仕様)で我慢します(^-^;
トヨタ2000GTは小学生の頃一度だけ間近で見たことがあります。岩手の田舎なのに、フツーに家の前に駐車してあったんですよね。当時「サーキットの狼」に夢中だったので興奮してしばらく見とれていたのを覚えています(*^-^*)

それにしても、杉さんとコロナの写真カッコ良すぎ!コロナのカタログ写真かと思いました(^o^)
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杉さん
上さん こんばんは
あらあら、コロナの写真褒められた!とっても嬉しいです。

この車(RT40)は昭和44年式で、昭和45年に友人から譲ってもらいました。
3速コラムシフトのマニュアルミッション車で、フロントドアには三角窓があります。
それまではベンチシートが主流でしたが、この車からセパレートタイプのリクライニングシートが採用されました。
シートを倒して、車内で寛ぐことが出来ます。ヘッドレストはありませんでした。

タイヤはバイアスタイヤです。
スポーティー車は、ロープロファイルタイヤ(扁平タイヤ)でした。いわば、バイアスタイヤの扁平率を70%から60%以下にしたものです。
ハコスカも、ロープロファイルでした。サイズは6.45-14だったかな?細いタイヤです。
その後、ラジアルタイヤが開発され、いよいよスポーツ走行が可能になりました。

おっしゃる通り、今見てもはハコスカはかっこいいですね。私は最高傑作車だと思っています。
国光仕様ってのがあるんですね。これは知りませんでした。
当時、日産のレーシングドライバーは、高橋国光さんや北野元さんなどトップレーサーがいましたね。
プリンスは長谷見正弘さん、理論派ドライバーでスカGで常勝です。

そのころはアクセル全開。スピードに酔いしれていました。これぞ若気の至り。
現在は65歳になり、安全運転を励行。バイクも車も飛ばさない快感を楽しんでいます。
すると見えないものが見えてきます。
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taizoさん
杉さん、こんばんは!
乗り物と青年!ロマンを感じます!
こういうお話を見ると、
最近の若者の車離れが切ないです。。。
こんなふうな素敵な思い出ができるのに、ゲームにスマホじゃ、なんか切ないです。。。
「書(スマホ)を捨て、街に出よ!」
なんて言いたくなります(笑)
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杉さん
taizoさん こんにちは
世間知らずの田舎者でした(笑)
明日の心配もしない呑気な青春時代を過ごせたことに感謝です。
呑んでバイクで車で遊びまくりのアホな私ですが、思い残すことはなく今は妻と二人でのんびり暮らしています。趣味は引き続きバイク、まだまだ知らない街を見てまわりたいです。いずれtaizoさんとも!
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